第9回は非常にユニークな起業家、荻野正明さん(学14P)です。
昨年(2014年)6月に神戸で行われた、楠ヶ丘会本部の同窓会で
記念公演「僕の軌跡」を聞かれた方々は「外大OBに、こんな人が
居たのか!」と驚かれたでしょう。私(管理人)も同窓会誌「楠ヶ丘」
NO.53を読んで驚きました。是非、この方にインタビューしようと決め
ました。

 荻野さんは、現在、定住地は香港。東京にも御自宅がありますが、
とてもビジーな方なので、簡単にインタビューに応じてもらえないと
案じていました。が、幸運にもそのチャンスが与えられました。

 1月23日、目黒にある「Anteprima本部」に荻野さんを訪ねました。
荻野さんは、ファッション、高級スーパーなどの分野で、年商500億
近い売上げを誇るフェニックス・グループ・ホールディングの会長。

 だけど、そういう雰囲気はまるでありません。お会いした印象では、
ゴルファーの青木功さんを連想しました。見上げるばかりの長身、
真っ黒に日焼けした顔。ラフなスタイルで面談に応じてくれました。
     


ー お邪魔しま〜す。お忙しいところ、時間を割いていただいて有難うございます。最初に少年時代のことをお伺い出来ますか?

荻野: 生まれは大阪です。3人兄弟の末っ子として生まれました。兄が11歳と9歳だったので、家での話題はそちらが主体。年長者の話ばかり聞いていたのでオマセだったと思います。一言でいえば「ひ弱な感じの理屈っぽい少年」でした。

ー エッ、ちょっと想像できませんね。身体は小さかった?

荻野: 高校(天王寺高校)に入った時は一番前でした。ところが、卒業する時には180pを超えていて、担任の先生から「お前、いつの間にそんなに大きくなったのか」と驚かれました。

ー なるほど。それで、高校では何かスポーツをやられたのですか?

荻野: 卓球にのめり込みました。何事にも熱中するタイプで、2年生の時には東京教育大学(現・筑波大学)の卓球部に入ることを決めていました。

ー そういえば、目下話題の卓球少女、平野美宇さんの御両親も筑波大学の卓球部主将を務められたとか。それで、両親に相談されたのですか?

荻野: 両親ともに反対でした。決定的だったのは、群馬大の教授をしていた伯父の意見でした。

ー ほう、何と言われたのですか?

荻野: 大学とは勉強するところだ。卓球をしに行くところではないと、けんもほろろでした。それで、思い直して3年生になって猛烈に受験勉強に打ち込みました。

ー それで?

荻野: 神戸大学の法学部に行きたかったのですが、浪人はダメだといわれて、一段落として大阪市大を受験しました。

ー で、ダメだったのですか?

荻野: 試験を受けたときには絶対の自信がありました。ところが、合格発表には私の名前がない。ものすごいショックでした。十代の人生で最大の挫折感を味わいましたね。

ー それで、2期校の外大を受験された。

荻野: いや、私は再度チャレンジする積りで予備校を受けました。これには優秀な成績で合格しました。

ー 神戸外大は受けなかった?

荻野: いや、模擬試験の積りで受けました。英語は真面目に答案を書いたのですが、数学と社会はいいかげんでした。どうせ合格しても行く積もりはなかったのです。

ー ロシア語志望はどうして?

荻野: どうせ行かないのならどこでも同じだと、鉛筆を転がして決めたようなものです。ところが、合格してしまった。

ー そうでしたか。それで外大に行くことにした。

荻野: いや、暫くの間迷っていました。ところが、ある夜、偶然に両親が話しているのを立ち聞きしてしまった。親父の声がハッキリ聞こえました。「あいつは浪人したらダメになる。どんなことがあっても神戸外大に進むべきだ」と言っていました。それで、観念して外大に行くことにしました。

ー なるほど。そういうことなら、最初からロシア語には違和感があった?

荻野: はい、やたら規則が多くて、英語などに較べると言語として成熟していないと思いましたね。それで、ろくすっぽ勉強しなかった。だけど、最近になってひとつだけ後悔したことがあります。

ー それは?

荻野: ロシア語の授業は真面目に聞いていなかったのですが、語源学(Etymology)のプレトネル先生に、一度、褒められたことがあるのです。あるとき、先生の発音するロシア語を黒板に書かされたのですが、聞こえるままに黒板にロシア語を書いたのです。すると、先生は「君は耳がいい。しっかり勉強しなさい」と仰った。プレトネル先生といえば語源学の学会でも大家と聞いていました。

                                           



ー その通りです。私もプレトネル先生に習いましたが、学究肌の素晴らしい先生でした。

荻野: 50年も昔のことなので、すっかり忘れていたのですが、最近になって荷物の整理をしていたら、1枚のプリントが出てきた。1年生のときの私の答案でした。それに、プレトネル先生の直筆でかなり長いコメントが書いてあるのです。今はもう何が書いてあるのかさっぱり分かりませんが、あの時のことを思いださせてくれました。多分、私もそのコメントがよほど嬉しかったのでしょうね。だから、捨てずに残しておいたのです。先生の筆跡を見て涙が出ました。そのプリントは今では我が家の宝物です。

ー いい話ですね。もっとロシア語に身を入れておけばよかった、と後悔されたわけですね。いささか too late ですが…。

荻野: そうなんです。だけど、私の経験から言えば、どこの大学を出たとか、大学で何を勉強したとか、そういうことは仕事の上の成功とはあまり因果関係があるとは思えません。要は、道を開くことができるかどうかだと思う。

ー なるほど。ということは、大学では模範生とは程遠い存在だったということですか。

荻野: そうですね。グリークラブに入っていましたが、それ以外では、私の学生生活は麻雀とパチンコ、それにガールフレンドが出来て彼女とのデート。それだけでしたね。

ー しかし、それでよく卒業できましたね。

荻野: いや、出来なかったのです。私は卒業年次では14Pですが、入ったのは13Pでした。ロシア語に関しては久保先生の温情もあって何とか単位を貰ったのですが、一般教養の「経済学」を落として単位不足で留年しました。

ー 一般教養で留年ですか。それは厳しいですね。

荻野: 経済学の追試では、さすがに猛勉強しました。でも完全に山が外れてしまった。で、単位は貰えず、1年留年でした。

ー それはお気の毒です。それでは、そろそろ「道を開く」話に移りましょうか。就職はどうされました?

荻野: 根がオプティミストなのか、就職なんて何とかなる、と気軽に考えていました。留年になることを知らないまま、手始めに、大手町の飯野ビルにあった、共産圏貿易専門の商社を受験しました。筆記試験は全くできませんでした。社長面接では、筆記試験の結果を見て呆れた顔をされました。結果は当然ダメでした。7月になって、少し焦りを感じて大阪の船場にある繊維商社を受験しました。面接だけだったので合格でした。ところが、翌年卒業して仕事に入る積りが、留年になった。会社側は、来年卒業できればいいから会社に来て仕事をしなさいという。この時点で、ロシア語とは完全にサヨナラでした。

ー その繊維商社でいよいよサラリーマン生活が始まった。

荻野: その会社は2年目に経営陣の不正経理が発覚して、辞めることになりました。その時、仕事の上で偶々知り合った運送会社の社長から、貿易関係に進出したいので一緒にやらないか、と誘われたのです。

ー なるほど。その辺から道が開けてくるのですか?

荻野: これからが紆余曲折の始まりです。その運送会社に勤務することになって、早速、「香港に貿易会社をスタートさせたいので、君にも手伝ってもらう」と言われたのです。1966年8月のことです。香港に赴任して、駐在員としての第一歩を踏み出しました。

ー 仕事の内容はどんなことだったのですか?

荻野: ゼロからのスタートですから大変でした。先輩と一緒に人集めから始めました。新会社での私の役割は日本から毛糸を仕入れて、現地のニット工場に売り込む仕事でした。

ー 向こうでは英語を使われたのですね。英語には自信があった?

荻野: いや、英会話はまるでダメで苦労しました。中国人の友人ができて、彼が英語の先生でした。暗中模索でしたが、1年後には何とか仕事も軌道に乗り出した。そして、駐在5年目のこと。突然、本社から帰国命令が出て「会社をたたんで帰ってこい」という。

ー 軌道に乗った会社を清算しろと?

荻野: 「何のコッチャ!」ですよね。私も訳が分からず、一旦大阪に帰って本社の意向を確認することにしました。

ー それで、何か分かりましたか?

荻野: 先ず、会社の基本方針として、日本からの輸出をやめて、日本への輸入に切り替えるという。これは大体納得できました。1971年といえば、それまでの$=360円の固定相場が$=308円になり、その後も円高に進むことが予想されました。だから、輸出→輸入の判断は間違っていなかった。だけど、新しい輸入事業で私が果たす役割が見えてこない。待機しろ、というだけで辞令が出るわけでもない。

ー ただ待つだけというのもキツイですね。

荻野: そうなんです。1カ月近く待ちましたが、あるとき先輩から大変なことを聞かされたのです。

ー と、いうと…?

荻野: その会社の社長には顧問のような形で「占い」の先生がついていたのですが、従来から社長は経営方針についてその先生に相談していました。輸入事業での人選でも、候補者リストを渡して先生のアドバイスを貰った。すると、私の評価は最悪で、この人には「長」のつくポジションを与えてはいけない、と言われたそうです。アホみたいな話じゃないですか。一面識もない占い師がボクの人物評価をするんですよ。

ー 確かに「アホみたいな話」ですよね。それで、荻野さんはどうされたのですか?

荻野: 反射的に思ったのは、この会社に居ては自分の将来はない、ということでした。だけど、当時は最初の結婚をして妻は妊娠9カ月でした。会社を辞めればたちまち路頭に迷うことになる。2週間ほど悩みに悩みましたが、ひとつのアイデアが閃いたのです。

ー どのような?

荻野: 会社はボクに香港の会社を清算しろと言っている。ボクには今の香港の会社を続けてもやっていける自信がある。ということは、香港会社を「居抜き」で譲り受け、独立会社として再出発する道があるのではないか、というものです。

ー MBOに近い考えですね。
 
(注) MBO(Management Buy-out):経営陣が会社を譲り受けてオーナー経営者として独立すること

荻野: ボクはマネジメントではないので、EBO(Empoyee Buy-out)ですかね。だけど、香港の会社を買収するだけの資金なんてありません。そこで、勇を鼓して社長に申し出たのです。

ー 何と?

荻野: 「退職金は要りませんので、今の香港会社をそのまま私に譲ってください」と。すると、社長からは「好きにしなさい」という返事。このときですね。「道は開けるかもしれない」と確信に近い直感を得たのは。 

ー なるほど。香港会社には退職金以上の企業価値があると判断されたわけですね。

荻野: そうです。狭いながらも 41uのオフィスがあり、最新式の事務器も揃っていました。もちろん、オフィスは賃借ですが、敷金という流動資産がありました。今まで一緒にやってきた5人の従業員もいます。それに較べれば、私の退職金なんて雀の涙です。


ー ピンチから起業を決心された訳ですね。

荻野: それまでは起業なんて考えたこともなかったのですが、結果としてそうなりました。

                                             

ー いよいよ、荻野さんの経営者としての飛躍が始まるわけですね。

荻野: いや、そんな簡単なものではありませんでした。最初の半年ほどは順調でした。ところが、ファッションの変化でピタリと止まった。日本から仕入れていた毛糸が売れなくなったのです。ファッションの恐ろしさを知りましたね。それからは苦労の連続でした。何とか生き延びなければいけない。歯を食いしばって頑張りました。すると、2〜3年後には少し状況が変わってきました。1970年代の後半辺りから円高傾向が強くなり、日本向け輸出がやりやすくなった。

 そこで、日本から仕入れたメリヤス糸を香港のニット工場に売るだけでなく、できたニット製品を買いあげて日本向けに輸出することを始めたのです。加工貿易ですね。これが、主なビジネスになって会社は立ち直りました。

ー その次の飛躍がありましたね。

荻野: 独立後15年ほど経過したとき、次のチャンスが巡ってきました。客先からの紹介で、1986年、イタリアの「PRADA(プラダ)」に出会ったのです。プラダは1913年創立の老舗で、ヨーロッパでは高級ブランドとして名前が通っていて、特にプラダのバッグは人気でした。が、日本でも、香港でも誰もプラダを知らない。エルメスとかグッチの有名ブランドだけが脚光を浴びていました。

                                      


ー その辺りで、2度目の奥様、荻野いづみさんの登場となるわけですね。

荻野: 矢張り、話はそこへ行きますか(笑)。いづみは呉服屋の娘で、特にデザイナーとしてのキャリヤがあるわけではないのですが、デザインに対する目利きには鋭いものがありました。友人の紹介で付き合っていたのですが、バツイチ同士、気が合って後に結婚することになります。そのいづみも「プラダは売れるんじゃないの」といいます。

ー そのプラダと代理店契約を結ばれるわけですね。

荻野: そうです。日本以外のアジアでの独占代理店契約を結びました。香港のペニンシュラ・ホテルに18坪の店を出し、それをいづみに任せました。すると、初年度から利益を出しました。翌年には、店も大幅に拡張し、50坪にしたのですが、この店だけで年間 32億円を売り上げるという快挙でした。

ー それを機に、荻野いづみさんはファッションの世界で水を得た魚のように活躍されますね。オリジナル・ブランドの「ANTEPRIMA」も奥様のアイデアですか?

荻野: プラダとの代理店契約が1999年に満了しました。その前からいづみと話し合って「自分たちでもできるのではないか」と、1993年に「ANTEPRIMA」という独自のブランドを立ち上げました。プラダ社も協力してくれて、ブランドの立ち上げは東京ではなく、ミラノで行われたのです。

ー その「アンテプリマ」では、2002年に出したワイヤーバッグが大当たりで一躍ブランド界に進出。シンプルで洗練されたデザインは今や時代をリードしているといってもいい。荻野いづみさんがチーフ・デザイナー。アンテプリマの顔として大活躍されていますね。御主人としても大満足なのでは?

                        
荻野いづみさんに関してはこちら
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荻野: そんなに褒めないでください。私はいづみには男の尻尾を踏まない限り好きなようにやれ、と言っています。

ー 「男の尻尾を踏む」とは?

荻野: 男には尻尾がある。尻尾というのは、ある種のプライドなのですが、これだけは傷つけられたくないというものです。どこが尻尾かは一緒に暮していれば分かるはずだとね。ところが、未だに尻尾を踏まれることがあります(笑)。

ー 荻野さんのフェニックス・グループにはもうひとつの事業がありましたね。GMS(General Merchandising Store)です。これは、高級スーパーということでいいのですか?

荻野: そうですね。香港では「シティ・スーパー(City Super)」と呼ばれています。日本の「紀伊国屋」や「成城石井」をイメージしてもらえばいいと思います。プラダ製品の販売で得た利益をすべてこのシティー・スーパーに注ぎ込みました。現在、香港では18店舗、台湾に5店舗、上海にも5店舗を出しています。このシティー・スーパーは一般のスーパーより上の層、つまり中流から上をターゲットにしています。富裕層の厚い香港では大ヒットしました。先般、あるパーティの席で、香港の行政長官から「荻野さんがシティ・スーパーを始めてくれたお陰で、我々の生活が随分変わりました」と、嬉しいお褒めの言葉を頂戴しました。

                                


ー ニットの生産から始まり、ファッションの小売り、生活関連の大型スーパーまで多くの事業を育てて来られましたが、今後の目標はどういうことになるのでしょうか。

荻野: 私も来年は後期高齢者です。もうこの辺でいいだろうと考え、昨年すべての役職を離れることにしました。私のモットーは「知足」、つまり「足るを知る」ことにあります。後は、私を育ててくれた香港や日本の社会に恩返しをすることです。

ー そういえば、母校の神戸外大に多額の寄付を頂戴したとか。神戸外大では、それを基金にして「荻野スカラシップ(海外留学奨学金)」を立ち上げたと聞きます。御立派です。他にも、このような寄付をされているのですか?

荻野スカラシップについては→ こちら

荻野: 一昨年、香港の友人たちと4人で他の大学にも寄付しましたが、今は学生の海外留学に力を入れています。そのためのファンドを有志と組んで、2つ立ち上げました。ひとつは、「華僑」に因んで「和僑会」と名付けています。いいネーミングでしょう。

ー 素晴らしいですね。荻野さんのような和僑がたくさん出てくれば、日本の大学生の海外との交流も盛んになりますね。

荻野: いつまで続くか分かりませんが、毎年、自分の身の丈に合った範囲内で出来るだけのことはやりたいと考えています。

ー そうですか。荻野さんの身長からすると、随分期待できそうですね(笑)。ところで、荻野さん御家庭にはお子さんもいらっしゃるのでしょう?

荻野: 私たち夫婦には私の連れ子(娘)と家内の連れ子(息子)の2人の子どもがいます。それぞれ独立していますが、彼らには一切財産を残さないと伝えています。財産はすべて社会還元に回す所存です。

ー 最後に、役職を離れて自由な時間ができれば、何をおやりになりたいですか?

荻野: まだ、なかなか自由な時間ができるまでに至っていませんが、これまで取りためたDVDが10年分あります。映画だけで1,000本はあるでしょう。他にドラマやドキュメンタリー、歴史ものなどもあります。今までこれらの DVDを観る時間は一切なかったのですが、ゆっくり系統立てて観てみたいと思います。

ー 本日は、長時間有難うございました。


 [インタビュー後記]

 幕末の僧・月荘(げっしょう)の漢詩の一節にある「人間(じんかん)至るところ青山あり」というのは、
この人のために作られたのではないか、と感じた。何度も挫折に近い状況に追い込まれながら、本人は
意に介さない。そして、香港で遂に青山に登りつめた。

 学生時代は決して優等生ではない。社会に出てからも道は必ずしも平たんではなかった。けれども、
荻野さんは「道は開ける」との信念をもって進んで行った。持ち前のOptimism と Enthusiasm(楽観主義と
情熱)が上手く絡み合い、強運も手伝って、天は荻野さんに「成功物語」への道を開いたのだ。
荻野さんが「アホな話」と嘆いた占い師の評価にしても、結果的には、そのことが道を開くためのキーとなった。

 神戸外大のOB(それも、私のすぐ1年下)に、こんなユニークな方が居たことに驚くと同時に大いに感銘を
受けた。


              2015年1月23日取材            管理人



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 第2回 陶芸家/濱村(旧姓 木戸)祐子氏(学31E) 2012年10月取材
 第3回 レアメタルのトレーダー/西野元樹さん(学46P) 2013年4月取材
 第4回 透明水彩画家/若葉恵子さん(学30C) 2013年6月取材
 第5回 現代ロシア文学翻訳家/織田佳子さん(学25P) 2013年9月取材
 第6回 青山学院大学名誉教授/寺谷弘壬さん(学9P) 2014年1月・2月取材
 第7回 起業家/西尾義彦さん(学12EA) 2014年5月取材
 第8回 横笛奏者/松尾慧(大浦典子)さん(学25P) 2014年7月取材




                                
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  第10回