美しい言葉

 

 
 暑中見舞いの季節がやってきた。何時頃からか、郵便局では「かもめ〜る」と名付けた特別のハガキを売り出した。これは、海の風を連想する「かもめ」と「メール」の合成語だが、意味はよく分からない。英語の「カモン・メール」(郵便局にいらっしゃい)という願望をも込めているという。ついでながら、このハガキの正式な名前は「かもめ〜る」で「かもめーる」ではない。

 世の中に語呂合わせや言葉の遊びのような表現が頻繁に登場するキッカケとなったのはテレビ広告だろう。先般亡くなった植木等が「ナンデアル・アイデアル」と、洋傘のCMを流行語にしたのが元祖だとされる。
 最近では、言葉のじゃれ合いのようなCMが氾濫している。要は、如何に人の記憶にとどめ置くかということに重点が置かれ、言葉のもつ意味は軽視されている。大切なのは語呂のよさであり、音の響きなのだ。典型的な例が「セブンイレブン・いい気分」だろう。
 政治家までが、これに悪乗りして、先般、公明党の神崎元代表が、選挙前に「そうはいカンザキ」というポスターを写真入で堂々と貼り出したのには、流石に失笑せざるをえなかった。

 日本語のもつ意味よりも語呂にウェートが置かれる風潮は、言葉の文化に重大な影響を与えている。従来使われてきた美しい言葉や繊細な表現が見捨てられ、単純で耳に触りのいい言葉だけがのさばってきているように思う。
 例えば、最近の若い女性は、我が娘たちを含め、「美しい」「魅力的」「きれい」といった形容詞を「おしゃれ」のひとことで表現する。だが、「おしゃれ」を広辞林で引くと「身なりを飾ること(人)」とある。「おしゃれ」という言葉が、本来の意味から逸脱して他の形容詞を駆逐してしまうのではないかと怖れる。

 私の学習塾にやってくる中学生も言葉を知らない。テストをやらせると、彼らの反応は3パターンしかない。簡単な問題なら「余裕」、歯が立ちそうにない問題には「無理」、その中間はすべて「微妙」と表現する。おまけに、口でいうだけで、それぞれの漢字を正しく書けないのが、また情けない。
 反面、TVのクイズ番組をよく見ている所為か、頓知だけは素晴らしい。先般、歴史の練習問題で、「1600年に徳川家康と石田光成が(   )で戦った。」の(  )内に適当な言葉を入れるものがあった。正解は、勿論「関が原」だが、「必死」と書いた生徒がいる。しかも平仮名で・・・

 学習塾では、元々、数学と英語を中心に教えていたが、塾生の国語力の低さに、少し考え方を変えた。些かなりとも国語力を身につけさせるのが急務ではないかと判断した。
 学校のカリキュラムでは国語の時間が少なくなり、家庭では「読む」よりも「見る」が優先する。だから、最近の学生は読むことが苦手だ。国語の読解力を試す問題を出すと、彼らは「イジメだ!」と抵抗する。しかし、美しい日本語に接する機会を増やすことによって、国語に対して少しでも親近感を持ってもらいたい。そのことが日本語の美しさを知るための第一歩だろう。

 時の総理大臣は「美しい国・日本」を目指すというが、そのベースとなるのは、美しい言葉ではないかと思う。

                    (了)

   [2007年5月記 原稿用紙 約4枚 課題:「広告、宣伝」]




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