7月27日(土)

  横浜「みなとみらいホール」でコンサート。今日の出し物は「華麗なるコンチェルトシリーズ」第3弾、「北欧3大協奏曲」、中身は、ニールセン「フルート協奏曲FS.119」、グリーグ「ピアノ協奏曲 イ短調 OP.16」それにシベリウス「ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 OP47」 の3曲。ソリストは、上野由恵、田村響、堀米ゆず子。この中でフルートを除く2曲は、私の「名曲ベスト10」に入っている。

 グリーグのピアノは「3大ピアノ協奏曲」にも数えられる名曲だ。今日は、田村響のソロで聴いた。田村響は未だ30代半ばだが、20歳の時、ロン・ティボー国際コンクールで第1位となり、一躍脚光を浴びだ。私の好きなチャイコフスキーのピアノやベートーヴェンのピアノ・第5番と同じく、出だしから迫力満点の曲だ。正確なテクニックとメリハリの効いた演奏でなかなかよかった。

 最後に演奏されたシベリウスのヴァイオリンは私の大好きな曲。ヴァイオリン協奏曲の中では一番好きだ。ところが、3大協奏曲や4大協奏曲にもランクされていない。だから、コンサートで演奏されることも少ない。

 今日は、堀米ゆず子の演奏だ。彼女は、1980年にエリーザベト王妃国際コンクールで日本人初の優勝を飾って以来、活動の場をヨーロッパ中心とし、ブラッセルに定住している。堀米ゆず子の名前で思い出すのは、2012年の夏だったか、彼女の定住地のブラッセルから日本に帰る途中、フランクフルトの空港でトランジットするとき、荷物の中にヴァイオリンを入れたまま入国しようとして、税関に捕まった。

 そのヴァイオリンが名器・ガルネリで時価1億円相当と査定され、輸入税として19万ユーロ(≒2500万円)を請求された。何時も携行するものだと主張して輸入税の支払いを拒否。本件、彼女がガルネリを日本で調達した時の購入契約書など 関連書類を取り寄せて税関に提出。1ヶ月後に無事返却された。 日本でもかなり大きなニュースになった。今日は、その名器・ガルネリの素晴らしい音色を存分に聴かせていただいた。素晴らしかった。第1楽章、最初の物悲しいヴァイオリンの旋律で曲の中に引き込まれ、第2楽章が終わるまで、彼女のガルネリに惹きつけられたままだった。そして、オケが第3楽章の”フィンランドの大地の底から響いてくるような”あの主題を演奏する頃には鳥肌が立って涙が止まらなくなった。久しぶりに素晴らしい演奏を聴かせていただいた。ゆず子さん、ありがとう!



7月25+26日(木、金)

 月末の木、金は、毎回、慌ただしく、バタバタと過ぎる。今月も同じこと。但し、今月は金曜日の「ユーモア・スピーチの会」には珍しいゲストが4人も来訪された。木曜日の体操教室とその後の「四季の会」は何時もと同じような内容なので省略する。

 26日の「ユーモア・スピーチの会」のゲストだが、女性3名、男性1名。先ず、関妹子さん。これは、イモコではなく、セキ・マイネと読む。れっきとした本名。名前の由来は、本人の出自にドイツ人の血が混じっているので、父親が「マイネ(Meine=私の)」と名付けた。関さんは手回しオルゴールのスペシャリスト。作曲、ミュージックテープの制作、オルゴールの演奏、また指導者でもある(→ こちら)。

 オルゴールは、右の写真に見るような木で出来た饗体。この木は宮崎県で採れる、樹齢 60~100年の飫肥杉を5年以上かけて乾燥させたものを使う。饗体には”魂柱”と呼ばれる柱が上下の板に固定されている。ヴァイオリンの筐体の構造と似ている。実際の演奏、音の出る仕組みについてては→ こちら をクリック。

 次のゲストは声楽家の「ひらやす・かつこ」さん。彼女は二期会でメゾ・ソプラノを歌うプロフェッショナルだ(→ こちら )。音楽家だけあって、手回しオルゴールに興味を示した。まいねさんからどうぞとオルゴールを渡されて、楽しそうにハンドルを回していた。右の写真、右から、ミュージック・テープの送りを調整するまいねさん、オルゴールの動きを見守る児玉さん、ハンドルを回すひらやすさん。

 次のゲストは福田カレンさん。ウェブの説明では、「エネルギー医療・メタ栄養学・メタフィジックス研究者。デトックスセラピスト、通訳者・翻訳家。10年来のフルータリアン」とある(→ こちら)。これだけ色々と並べられても何をする人かよく分からない。最後の「フルータリアン」というのが、キーワードだ。これは、ベジテリアンが肉類は食さず、野菜を中心に食べる人だが、フルータリアンはフルーツ中心に食べる人のこと。しかし、カレンさんの場合は、フルータリアンとはいえ、所謂クダモノだけをたべるわけではなく、椿などの花やはこべなどの雑草も積極的に食べる。これは、花や雑草を通して光を食べていることになるのだそうだ。 彼女によれば、「私たちの生命にとって、本質的なエネルギーは、カロリーでも栄養素でもなく、光(情報)です」となる。そして、この辺から彼女の栄養学「メタ栄養学」が不思議な方向に展開する。それは、彼女の書く本にも現れる。最近の著書、「魂の医療」や「デトックスの極意-最強のアンチエイジング」などである。

 4人目のゲストは、黒一点の男性。原田敬美(ハラダ・ケイミ)さん(右)。この方の名刺にはたくさんの肩書があり全部を紹介できない。ウィキペディアによると(→ こちら)、左の通りだが、本職は「㈱SEC計画事務所・代表取締役」となっている。「SEC」とは、「Space Endeavor Collaborates」のことで、「空間創造に挑戦していく仲間たち」という意味らしい。何だかすごいコンセプトだが、興味のある方は「こちら」をお読み頂きたい。

 この日の会は、ユニークな4人のゲストが参加されたので、大いに盛り上がった。なのに、幹事の私は、往路、車が環七で大渋滞に巻き込まれ、とても定刻に着けないだろうと焦った。が、甲州街道を過ぎる辺りから急に車が居なくなり、スイスイと走り、何とか間に合った。ラッキー! ところが、帰りは折からのゲリラ豪雨と重なり、児玉邸からパーク場に行くまでにずぶ濡れ。おまけに駐車料金を精算するのに取り出した千円札を精算機に入れる前にビショビショ。精算機が受け付けず、無理に入れようとするとお札が破れてしまい、散々な目にあった。
 下の写真は、ゲストと会のメンバーたちが夕食を食べているところ。大根煮、天ぷら、冷やし素麺の夕食だった。
 
   



7月22日(月)

 昼に内幸町のプレスセンタービルで「多田周子東京後援会」の理事会があった。現在、東京後援会には理事、顧問などの役員が全部で16人居る。その内、9名が今日の理事会に出席していた。他に、多田周子さん本人、音楽評論家の富沢一誠氏、作詞家の京えりこ氏、事務局の田中さんが出席で合計13名が10Fのシルバールームに集まった。

 私は車で行って、隣の「富国生命ビル」の地下駐車場に車を停めたのだが、地上に上がるエレベーターが見つからなかったことや間違った出口に出てしまったことなどで12時の定刻に少し遅れた。部屋に入ると、皆さんはすでに着席して、専務理事の橋田氏が議事の説明をするのを聞いていた。私の席は会長側の右端にあり、机の上には資料一式が置かれていた。私の隣は、今年97歳になる最長老の柴原顧問だった。やがて、食事の時間となり、二段重ねの重箱が配られた。柴原さんと話しながら食べたが、量が多く全部は食べられなかった。全員が食事を終えると藤田会長の簡単な話があり、次に会長の隣の多田周子さんがこの1年間の総括を話した。「どこに目標があるのか分からないまま果てしない旅に出かけたように思う」と言っていたのが心に止まった。

 それから、テーブルの反対側に話の順番が移り、評論家の富沢さん(テーブル中央)、作詞家の京えりこさん(その右隣)が話した。次に、私の向かいに座っている大藤さんが話し、隣の三枝さん(右端)、副会長の安達さん(左から3人目)、太田さん、西谷さん(井戸兵庫県知事代理)と反対テーブルの全員の話が終わった。

 これでスピーチはお終いだろうと思って、資料に目を移した途端、「次は中村さん」と振られた。全く予定していなかったので、何を話していいか分からない。難しい話が多かったので、皆さんをリラックスさせてあげようと、周子さんのペット、猫の「ミィチャン」の話から入って、我が家のオスだと思っていた文鳥のケンゾー君が卵を産んだ話をしたところ、意外に大受けした。

 今日は、特に難しい議題はなく、懇親会のような感じでシャンシャンと終わった。帰りは、出口のところで太田颯衣(オオタ・サツエ)さんと一緒になったので、彼女を車で目黒の自宅近くまで送った。帰宅して、資料を改めて読んでみた。「多田さんのスピーチの後、全員が順に発言。内容は、”多田周子さんへの期待”」と書かれていた。少し遅れていったおかげで、そうとは知らずとんだ恥をかいてしまった。



7月21日(日)

 昨日から淳子が来ていて、今朝、一緒に選挙に行った。私は改憲派なので、一人でも多く保守(維新を含む)に入れたかったのだが、今回の選挙で「安楽死を考える会」という会派が立候補しているのを知った。この会の中身については全く知らないのだが、会派の名前とキャッチフレーズに惹かれて「比例代表」の投票で清き一票を「安楽会」に投じた。

 午後からは、「横浜マリン・コンサート」を聴きに「みなとみらいホール」を訪れた。このコンサートは、毎年、「海の日」の前後に行われるのだが、この催しを企画・実行するのは「横浜音楽文化協会(略称・音文協)」。現在の会長は水野佐知香さん。この方は、この日のために音文協のメンバーで編成される「よこはまマリン・オーケストラ」のコンサート・ミストレスでもある。

 本日の演目は、日本・オーストリア友好150周年」を記念して、モーツアルトとヨハン・シュトラウスⅡものが主体のオーストリアの作品と日本側は中田喜直の作品。先ず、最初はズッペの「軽騎兵」序曲。F.V.ズッペはオペレッタの作曲家。今では「軽騎兵」と「詩人と農夫」の序曲が有名だ。特に、「軽騎兵」序曲は、勇壮なトランペットのファンファーレで始まるおなじみの曲で、コンサートの最初に演奏する曲としてはピッタリ。軽快なメロディも聴いていて楽しい。

 指揮者の御法川祐也(ミノリカワ・ユウヤ)は、元々、NHK交響楽団のビオラ奏者だが、指揮も得意で今日のような常任指揮者が居ないオーケストラを指揮することが多い。指揮のスタイルはオーソドックスだ。次は、モーツアルトが2曲:「ディベルティメント ヘ長調K.138」と「フルートとハープのための協奏曲 ハ長調K299」。

 「ディヴェルティメント」は「嬉遊曲」と訳されているように、宴会を盛り上げるための楽しい曲だ。モーツアルトは13歳のとき、父親に連れられて3度イタリア旅行に出かけて3つのディヴェルティメントを書き上げたが、このK138は、イタリアの明るい陽光と生き生きとした空気感を取り入れたものと言われている。

 「フルートハープのための協奏曲」は、22歳のとき母親と一緒に滞在したパリで書いたもの。モーツアルトはある公爵の娘の家庭教師をしていたのだが、そこの父親がフルートを、娘がハープを愛好しているので、フルートとハープのための協奏曲を作って欲しいとたのまれて書いたもの。フルートとハープという全く音色のかけ離れた楽器の協奏曲は、私には違和感が先に立ち、半分寝ていた。

 後半は、中田喜直とシュトラウスもの。中田喜直は横浜市旭区に居住していて、音文協の顧問でもあった。最初は歌曲で「さくら」、「夏の思い出」、「歌をください」の3曲をソプラノの柳澤涼子が歌った。すごく体格の良いオバサンで声量はタップリだが、それほど素晴らしいとは思わなかった。同行のY女も「夏の思い出」を聴いて、「多田周子さんの方が上手だね」と囁いた。確かに、「夏の思い出」は多田周子の得意曲のひとつ。昨年春、神戸高校同窓会の特別プログラムで歌った時の印象が良かったのだろう。次にピアノ連弾「日本の四季」というのがあったが、これも聞いたことがあるメロディが出てくるが、どうしてその曲をピアノ連弾で演奏する必要があるのか、よく理解できなかった。

 最後は、J. シュトラウスのお馴染みのワルツとポルカ。これは、フルオーケストラの演奏と「春の声」ではソプラノの小田切一恵がコロラチュラ・ソプラノ部分を巧みに歌って聴き応えがあった。


7月19日(金)

 狛江市にある子どものための英語教室「CESこまえ児童教室」(→こちら)の開設10周年記念パーティに次女と2人で出かけた。この教室の塾長にあたる野戸史子さんは次女の親友で、私が学習塾を経営してた時の仲間である。もう、15年前になるが、私は学習塾「糀谷教室」の開設を思い立った。サラリーマンを卒業して第2の人生を送るための起業でもあった。(学習塾開設に関しては「 こちら」を参照願う。)

 今にして思えば、これは、なかなか華々しい船出であった。最初に、当時少し知遇を得ていた朝日新聞の高橋美沙子記者の取材を受け、朝日新聞朝刊全国版の「生活」面のトップ記事に掲載された(→ こちら)。更に、この朝日の記事を見た日経の記者からもインタビューを受け、当時出たばかりの雑誌「日経マスターズ」に2頁を割いて写真入りで掲載された(→ こちら)。これらの掲載記事を今読み返してみると恥ずかしくなるが、当時の私は一端の”アントレプレナー”気取りだったかもしれない。

 この糀谷教室も最初は次女と2人でスタートしたが、やがて2人では手が回らなくなり、次女の親友だった野戸史子さん(以下「史”フミ”ちゃん」)にも手伝ってもらうことになった。非常に活発で明るい史チャンは、直ぐに、生徒たちからも「史子先生」と親しまれるようになった。この史ちゃんが、一時、産休で数ヶ月休んだことがあったが、その間、生徒たちはとても寂しがった。丸々とした男の子を無事出産、史ちゃんは再び糀谷教室で教えることになった。が、生れたばかりの愛息(ハルくん)を一人にしておくわけには行かない。愛車・ベンツに子供を乗せて親子で塾まで通ってきた。毎日のように、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちに声をかけられて、ハルくんも糀谷教室の一員として成長していった。

 ハルくんが2歳になった2007年から、毎年、「糀谷教室教員研修旅行」という名目で、史ちゃん親子と中村親子の4人が近郊に一泊旅行をするようになった。最初に出かけたのは、伊豆の稲取高原だ(→ こちら)。その後も何度か4人で出かけたので、ハルくんもすっかり私にもなついて、私のことを「ジュクチェンチェー」(「塾長先生」)と呼ぶようになった。だから、私の記憶にある「野戸のハルくん」(実際の孫にも金子のハルくんが居るので、こう呼んでいる)といえば、左の写真のようなイメージであった。

 今日、10年振りだろうか、野戸のハルくんに会った。パーティー会場の狛江市役所にある「ジャック・ポット」に入ると、史ちゃんの御主人が記録ビデオを撮るのだろうか。入り口に三脚を立ててカメラを覗いていた。簡単に挨拶を済ませると、御主人が奥の方にいる学生を呼んだ。「これが、ハルキです」と言われて見たのは、私のイメージとは全くかけ離れた「おにいさん」がやってきて「お久しぶりです」と挨拶するではないか。背丈が追い越されるのは無理もない。横方向に縮んでほしい本人の願望とは裏腹に、私は、年々、横方向に膨れる代わりに、縦方向に縮んでいくし、先方は、目下、伸び盛りだ。しかも、言葉遣いは「ジュクチェンチェー」と言っていたハルくんとは全くの別人だ。

 今は桐蔭学園中学の2年生とのこと。その昔、次女の淳子がハルくんに「六甲おろし」を教えて、タイガースの選手になってもらう、と意気込んでいたが、現在、学校ではサッカー部に入って、将来はJ リーグ希望だという。全く、隔世の感とはことことだ。

 パーティの方は、小さの子どもたちと父兄の方々でごった返していた。部屋のコーナーには、ビュッフェ形式で食べるのだろう、御馳走が並べてあった。が、とてもこの集団の中で食事をする勇気がなかった。淳子も同じ意見だったので、お祝いのフラワー・アレンジメントを史ちゃんに渡して早々に退散した。しかし、あのパーティの大盛会は、史ちゃんのアントレプレナーとしての成功を物語るものに違いないと思う。最後に史ちゃんのことを書いたエッセイがあるので紹介したい。本人が読むかもしれないが、出来た人だから全然気にしないだろう。それと、史ちゃんから送ってきたパーティの記念写真を掲載させていただく(最後列中央、男子学生2人の左がハルくん)。当日、カメラマンをつとめた御主人の労作だ。
エッセイは→ こちら

 




7月17日(水)

 ドイツ時代の友人で、今も日本とドイツを行き来してドイツ会社のエージェントのような仕事をしている、元・西華産業のTさんからのドイツ便りによると、今夏、西欧では猛暑とのこと。この3週間で最高温度40℃を超える日が3度もあったという。Tさんは、デュッセルドルフの郊外、私たち家族の住んでいた「オストラート」というところに自分の家を今も所有している。夏の間はドイツ人の奥さんと一緒に酷暑の日本を離れ、避暑を兼ねてドイツで暮らすのだが、今年は日本のほうが涼しいと思う、と書いている。

 確かに、今夏、関東地方の”梅雨寒”は長い。毎日、厚い雲が空を覆い滅多に陽が差すことが無い。お蔭で野菜の発育も悪く、スーパーの店頭のトマトやキウリが値上がり傾向にある。ベランダの「枯れるに任せている」アロエの花は、日照時間とは関係なくどんどん花弁を落としていき、今は頂上に数えるほどの花を残してすっかり枯れ落ちた。1週間前の予想では、もう丸坊主になるはずだが、最後の頑張りを見せている。何だか、オー・ヘンリーの「最後の一葉」を思い出すが、この花は絵ではない。早晩、丸坊主になる運命だ。

 今日は、左下の差し歯が出来る日だ。先週、左下の差し歯が抜けたことを書いたが、林歯科では、今日、新しい差し歯が完成することになっている。上は総入れ歯があるが、下の奥歯がなくては噛めない。この1週間、食事を食べるときには寂しい思いをした。こんなとき、助かるのが「冷やし素麺」だ。あれだと噛む必要がない。冷たく冷やした素麺をタレに浸して呑み込む。喉元を通る時の感触が素麺の旨味だ。だから、素麺は腰のある方が旨い。

 腰のある素麺といえば「揖保乃糸」だ。これは、多田周子さんに教えられた。周子さんは兵庫県たつの市の出身。町の真ん中を揖保川が流れている。だから、竜野で作る素麺に「揖保乃糸」という名前がついた。これは、登録商標にもなっている。私は関西出身だから、揖保乃糸という素麺は子供の頃から知っていた。が、それの産地が竜野だとは知らなかった。「イボのイト」という音読みだけが頭にあって、変な名前だと長い間思っていた。

 この夏、亡き妻の末弟、枢(カナメ)君からお中元に「半田手延素麺」というのを送ってきた。 「モンドセレクション 2014年金賞」というタイトルまでついている。半田というから愛知県の産かと思ったら、「徳島県」とある。徳島線に「阿波半田」という町があるらしい。そろそろ、揖保乃糸の在庫も切れる。

 今日、林先生に下の差し歯を新しくしてもらったので、近々、冷やし素麺の食べ較べをしてみようと思う。




7月13日(土)

 なかなか面白いイベントに出かけた:「如水会 夏のファミリーイベント」。如水会(一橋大学同窓会)が、会員向けに行うクローズド・イベント。如水会館のスターホールでのディナー・ショーだ。Y女を誘った。ディナーの方は、東京會舘のビュッフェ料理。洋風、和風の料理を取り混ぜた御馳走がコーナーに置かれたテーブルに並ぶ。観客のテーブルはステージを中心に10人掛けテーブルが12脚が置かれている。本来なら120名が着席できるが、ステージが見やすいようにステージ側には椅子を置かない配置となっているため、来客数は80名だった(下図参照)。客は、年配者のグループ、御夫妻、若い人たちの子供連れなど。

 私たちの席はAテーブルにあった。恐らく、年配者中心に配置を決めたのだろう。同じテーブルの私の隣には丹治清吉さんという大先輩夫妻が座られた。S28年の卒業というから、私の10歳上、現在88歳だ。宇部興産で言えば、故・桜井淳一郎さんの同期だ。それでも、奥様のためにせっせと料理を運んでおられた。私の方は、Y女が2人分を運んできてくれるので上げ膳据え膳を決め込んだ。料理はバラエティに富んでいて、どれも美味しかった。

          


 やがて、ステージが照明に照らされ、ショーが始まる。本日のショーは「カジキタ・ドリーム」。カジキタとは、「弥次喜多」を捩ったネーミング。宝塚歌劇団・元花組の舵一晴(67期生))と元雪組の北山里奈(73期生)の2人が主催する小グループで、歌と踊りを披露する(→こちら)。

 本日の出し物は、先ず、会場の子供さん向けの童謡、「海」、「われは海の子」、「夏の思い出」、「茶摘み」など6曲。それが終わると、今度は年配者向けの懐かしの歌、「銀座カンカン娘」など古い歌を中心に観客にもマイクを回しながら集団カラオケのように歌う。歌は、カジ・キタが歌うが、その間、他はステージのダンサー。衣装を取っ替え引っ替え、宝塚のレビュースタイルのダンスを踊る。最後は宝塚歌劇団の十八番「すみれの花咲く頃」で占めた。ステージの写真を何枚か紹介する。美味しい料理と迫力ある舞台。@6,000円は、我々卒業生の同窓会費から援助があるのだろうが、コスパとしては素晴らしい。

 

         

 



7月10日(水)

 梅雨寒というのだろうか、このところ雨は殆ど降らないのだが、毎日、どんよりした日が続く。気温も25℃以上には上がらない。湿気が高いので清々しさはない。3日前に紹介した”枯れるに任せている”アロエだが、その花は下の方の花弁は全部落ちて、花の頂上部の少しだけが残っている(右の写真)。後1週間もすれば、丸坊主になってしまうだろう。

 先月末、大学の同窓会でカメラマンの役目もあった私のカメラにメモリーディスクが入っていなくて、一時、真っ青になった。が、幹事の写真班の2人がチャンと撮影してくれていて、今日、アルバムの編集を終えることができた。手元に送られてきたのは、”Google Photo”。写真を添付しなくても、Googleに保存されたファイルにアクセスすると大量の写真が見られる。クラウドの応用だが、一種のインスタグラムだ。おまけに、動画まで入っていて、私のPCではデータを取り込めないので、You Tubeに投稿してもらった。お蔭で、今までにない動きのあるアルバムが完成した。→ こちら

 夕方から多田周子のライブに出かけた。このところ、姫路、奄美、上海・・・と地方や海外にも出かけていて、東京には殆ど居なかったようだ。久しぶりに赤坂のライブハウス「November 11th」に帰ってきた。このライブハウスは40人ほどが入れる部屋だが、50人近くが入って超満員。写真を撮るのにとても苦労した。歌以外にも、色々工夫が凝らされていて、奄美からのお土産として「味噌ピーナッツ」(左)がテーブルに置いてあった。元々、房総で発祥、江戸で普及したと言われるが、奄美の郷土料理でもある。関西人の私はこれまで食したことはなく、全く初めて口に入れたが、ピーナッツの香ばしさと味噌のネットリ感が微妙にマッチして美味しかった。

 もう一つ、これも奄美の郷土料理と言われる「油ソーメン」(右)は、どうも馴染めない。これは、サービスではなく、1,300円で注文するのだが、私はパス。同行のO女が注文したので、少しだけシェアしてもらい食べてみた。周子さんがこのライブハウスのシェフにレシピを渡して、特別に料理してもらったとのことだが、あまり美味しいとは思えない。ソーメンは、矢張り、冷たくして、タレで戴くのが一番だ。

 今夜のライブでは、多田周子さんは抒情歌、カバー曲、オリジナルを併せて20曲近く歌った。その中では、矢張り、奄美をテーマに歌ったオリジナル曲、「なつかしゃや」が一番良かったように思う。抒情歌では、季節的には未だ少し早いが「夏の思い出」が多田周子の“高音域が美しいソプラノ”にはピッタリの曲、カバー曲では、「港が見える丘」をとても懐かしく聴いたが、一部、私の知っている歌詞と違っていたので、周子さんにメールで確認している。

 以下に今日の写真を5枚ほど掲載するが、多田周子の後ろでバイオリンを弾いているのは、ツル・ノリヒロ。なかなかユニークなバイオリニストだ。演奏テクニックは抜群。ライブ演奏の You Tubeがあるから紹介したい(→ こちら)。

             

   

            



7月9日(火)

 昨日、今日と病院通いが続く。昨日の月曜日、朝食を食べていたら、バナナに付いて、左の下の差し歯が抜けた。この差し歯は片岡歯科医院で作ったもので、1年ほど前にも一度抜けたことがある。その時は、林先生が「しっかりした差し歯なのでこのまま入れておきます。今度とれたら新しいのを作りましょう」と言って、元の位置に差してくれたものだ。

 昨日は、昭和大学病院にアポイントがあって、歯科医の診察を受ける時間がなく、取り敢えず、抜けた歯を持参し、状況だけは説明しておいた。で、次の昭和大学病院/呼吸器内科に急いだ。この日は楠本先生に、息切れが治らないこと、加えて、最近、血圧が相当に上がっていたことなどを説明した。それでは、次回、心臓の検査をやりましょうということになり、心電図、エコーなどの予約を入れた。

 そして、今日は朝早く歯医者に行き、取れた差し歯を新しく作ることにした。2本が一体となったセラミックの差し歯は、片岡さんでは、確か、4万円ほど払ったと記憶しているが、林先生の方では、最近できたセラミックの普及バージョンで「ハイブリッド」という材質で作ることとした。これだと、保険でカバーすることができるので、3,000円ほどで出来るという。早速、歯型を取ってもらった。新しい歯は来週の水曜日に出来るという。

 歯医者を出て、昭和大学病院に急いだ。今日は泌尿器科。前立腺がんの定期診断だ。5日の日に採血してもらった試験結果をベースに話を聞いた。PSAは0.041で問題ないとのこと。どういうわけか、いつもメチャ待たされるM医師の診察が今日は1時間もかからずに終わった。3ヶ月に一度のリュープリンの注射も併せて駐車料は400円。何時もは800円なので、1時間も早く終わったことになる。

【訃報】 末山 哲英 さん。 元・宇部興産・常務

 予てより療養されていたが、7月4日に御逝去。97歳。葬儀等は身内で済ませたいう(末永さんからの情報)。末山さんには、プラント事業部時代にお世話になった。とにかく、仕事熱心な方で、特に専門分野の石炭ガス化アンモニアの話になると生き生きとした表情で話が続いた。晩年、膝を痛めて杖を離せなくなった。それでも、何度か、ガス化アンモニアの商談で中国に出張された。ご冥福をお祈りする。



7月7日(日)

 今日は七夕。だが、七夕ネタは7月に入ったばかりの時に書いてしまった。従って、その時に紹介した、我が家のベランダにある”枯れるに任せた”アロエの花について少し触れておきたい。このアロエについては、6月11日の欄で紹介したが、次女の淳子がヘルパー時代(ということは3年~4年前だろうか)にお客様から貰ってきた。
「お父さんにあげる。育ててくれてもいいし、捨ててもいいよ」
 淳子の手のひらには、花の苗を入れる黒いビニール袋の中で、辛うじてアロエと分かる植物が、緑色で肉厚の小さな鋸葉を見せていた。

 取り敢えず、小さな植木鉢に植え替えて水をやり、ベランダの台の上に放置した。その後は、ほとんど手入れらしい手入れもしなかったが、大きくなるに連れて2~3度大きな鉢に植え替えた。どんどん大きくなり、一時は、巨大なアロエの枝が鉢から外に向かってせり出して、その重量に耐えかねて植木鉢が傾いていた。

 昨年の秋、台風もどきの大風に煽られて、台の上からコンクリートの床に落下、植木鉢は割れてしまった(左写真)。少し大きめの鉢があったので、土と一体になってしまった根っこをストンとその鉢に落とし込み、後は枯れるに任せることにした。

 ところが、6月11日の日記にあるように、たくさんある株の一つから、突然、花の芽のような茎が伸びてきたのだ(6月11日の写真参照)。 そして、遂に、7月1日の写真に見るような「全開」に近い感じにまでなった。

 そして、今日の写真では、下の方の花は枯れて落下し始めた。今からは、上の方の蕾に近い花が開花を始め、下の方の花はどんどん落ちていくことになるのだろう。

 だが、私のイメージの中では、アロエの花というものは砂地に育った大きな灌木のようなアロエの木から花が出てくるものだ。2015年の正月、次女と2人で行った房総半島最南端、房総白浜の海岸で見たアロエの花が頭の中のイメージとして固定してしまっている。その姿は、下の写真のアロエの花だ。この房総白浜のアロエと我が家のベランダのアロエのあまりにも異なった姿は、それが同じアロエの花だと認めるには相当な抵抗がある。


             
 

7月5日(金)

 昼前、昭和大学病院の泌尿器科で採血があった。来週の火曜日にある診察前に血液の分析を済ませておくためだ。採血には殆ど時間がかからない。到着後30分以内に終わる。それを見越して、UBE本社での「とぴぐろ」の取材を13:00に予定しておいた。その足で、本社へ。昭和大学病院からだと30分ほどで着く。

 本日のインタビューは2名。化学のI氏と法務のW氏だ。I氏はデュッセルドルフ駐在から帰国したばかりで、最近のドイツ事情などを聞いていると懐かしかった。もうひとりのW氏はアメリカでの弁護士事務所での研修経験の話。こちらは、アメリカでのビザの仕組みを知らないとなかなか理解し難い話だった。それよりもタクシーに置き忘れたスマホがウーバーへの電話1本で手元に戻ってきたという話。こちらの方が、目下、日本でも普及途上にある「配車アプリ」の利便さが強調されて面白いかもしれない。いずれにしても、今週は、先月末にあった大学の同窓会アルバムの編集の仕事が入ってくるので、「とぴぐろ」の方は後回しになりそうだ。



7月4日(木)

 今日、体操教室の後で、今年始めてというか、令和の御代で最初の女子会があった。体操教室の生徒は、現在、女性10名、男性1名(つまり、黒一点)だ。私より年長の人が3人いる。年齢的には88歳が2人(そのうちの一人は長期お休み中)と83歳が1人だ。

 その長老ですら、私よりも遥かに柔軟で、軽やかに動く。私など、正座はできない、足の関節を折りたたむことも無理。背中を真っ直ぐ、直立の姿勢を取れない。つま先立ちをすると直ぐにベタンと足全体を床につけてしまう。知的教育を例に取れば、私などは特別支援学級に入れられてもおかしくはない。それでいて、彼女たちから「級長さん」と、頼りにされるのは、私が黒一点だからではないだろうか。

 今日の女子会でも、私は中央の席に座らされて、女性同士が論争になれば、私は行事役を仰せつかる。それも、満更でもないのだが…。

      


7月3日(火)

 先般、児玉麻里さんから、オルガンコンサートでお世話になったお礼にと、突然、夕食に誘われた。断るわけにも行かず、今日の火曜日の夜を約束してしまった。夕食の場所は「三笠会館・武蔵小杉店」。三笠会館は銀座が本店だが、各所に支店を出している。

 武蔵小杉店は武蔵小杉の駅前にある。駐車場がないので未だ行ったことはない。児玉さんが車で迎えに来てくれた。折角なので、一旦、上に上がってもらって、ケンゾーに御対面。
「ゥワ~、小さい。でも、真っ白でとってもキレイ」というのが、ケンゾーに対する第一声。暫く、手に乗せて遊んだ。

 一幅のお茶の後、児玉さんの車で出かけた。今日の運転手は藤木さん。日本交通の運転手だ。三笠会館・武蔵小杉店までは15分もあれば着く。「銀座洋食・三笠會館」と書かれたガラス扉を開けると、四人がけテーブルが10脚ほど並んでいる。お客は、我々が一番乗りで他には誰も居なかった。

児玉さんのお勧めで、オニオンスープ、エビフライ、ハンバーグなどを御馳走になった。エビフライはとても美味しかった。丁寧にお礼を言っておいたが、何だか怖い。そのうちに強烈な協力要請が来るのではないかと心配ではある。



7月1日(月)

 今年も半分が過ぎた。毎年のことだが、月日の過ぎて行く速さに振り返って驚いてしまう。7月といえば、昔から「七夕」と相場が決まっている。が、最近は七夕の竹飾りを滅多に見なくなった。

 昔は、住宅街を歩いていると、あちらこちらの家の角には、願い事を書いた色とりどりの短冊や七夕飾りを笹の葉につるしてあるのを見かけたものだ。が、昨今、七夕飾りを見ることができるのは、JRの駅、デパート、オフィスビル内の広場といったところに限られるようだ。

右の写真は、内幸町の「富国生命ビル」B1の「時計の広場」というところにある七夕飾りだ。10日ほど前、プレスセンタービルに出かけた時に、早々と飾り付けを終えているのを観て撮ったものだ。

 七夕飾りで思い出したのだが、我が家の”枯れるに任せている”アロエは、その後、どんどん花が開いてきて、左のような姿になった。恐らく、この状態がほぼ満開に近いのではないだろうか。こちらは、七夕飾りよりも、形状的には、クリスマスツリーに近い。

 ところで、この2枚の写真だが、先月末の同窓会でカメラの中にメモリーカードが入っていないという大失態をやらかした、あのカードから取り出した画像だ。もちろん、カードはPCの本体に挿入したままになっていた。