4年あまり続いた「介護日記」は、妻の死を以て終えることとした。
 本日より、タイトルを新たに「介護日記ーその後」とし、自由日記スタイルで生活の記録を留めようと思う。また、妻がこの世に存在した証をアピールするため、我々夫婦の生き様をテーマに私小説に挑戦することにした。仮題を「白い闇」と名付けたが、これは私の自分史でもある。「白い闇」は毎週月曜日に掲載の連載小説となる。(2008年4月21日)

 「白い闇」(最終章)へ移動

尚、このページのBGMはアクエアリアス氏のアルバムから、この日記のスタートに因んだ「春」のテーマとして、私の好きなベートーベンの6番「田園」の2楽章を借用した。




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2023年(令和5年)






3月28日(火)

 今日は、光ホームクリニックの Dr.廣石の NO.21の在宅診療があった。リビングに入って来ると、目ざとくナイスデーに眼をとめて、「新兵器が来ましたね」と一言。TVのCMを観て衝動買いしたと、経緯を話したところ、
「腕でも足でも筋肉ができると、老化防止になります。頑張って続けてください」と、エールを頂戴した。

 今日は、何時もの診察の他に、前立腺がんのマーカー”PSA”と橋本病のマーカー”TSH”の分析をするための採血があった。


3月25日(土)

 先週の木曜日、体操教室で感じたのだが、もう少し脚力をつけないと熟女たちについて行けない。教室の体操は1クール30分ほどの体操が3クールあるのだが、最高齢の私は第3クールの”床に座ってのストレッチ”だけは、免除されていて、椅子に座って見物している。が、第1クールと第2クールの立って身体を動かす体操だけで、何時も、アップアップしている。特に、足を動かす体操だけはキツイ。通常、道を歩くときは、歩行器が無ければ、30mも歩くと息が上がってしまい、少し休憩しないと歩けなくなる。が、体操教室での1クールは、休憩なしで1km歩くほど足に負担がかかる。だから、手抜きしながらやっていても、1クールが終ると息も絶え絶えになって、ソファに座り込んでしまう。熟女たちの脚力との差は歴然たるものがある。

 TVのコマーシャルで、88歳になる女優の草笛光子さんが、ニコニコ笑いながら軽やかにステップを踏んでいる、「健康ステッパー”ナイスデー”」の宣伝がある。”TVを観ながら脚力をつける”が、うたい文句だ。何度も観ていると一度試してみたくなって衝動買いしてしまった。が、商品が配達されてきたのを見ると、部品がセットになっていて、自分で組み立てなければならない。私に組み立てる自信はない。近くに居る孫のナオ君に「会社の休みの日に来てほしい」と頼んでいた。そのナオ君がが、今日やってきた。そして、彼が組み立ててくれた”ナイスデー”が右の写真だ。リビングのTVの前に置いた。

 前回のブログで紹介した多摩川の桜も満開に近くなった。そして、我が家のバルコニーからから見下ろすと真下に見える桜の樹海も満開になった。満開の桜の花を真上から観るという、チョット珍しい風景を下に紹介する。

   


3月22日(水)

 プロ野球の世界大会 WBCの決勝戦が、アメリカのマイアミで日本 vs. アメリカの間で行われ、日本では早朝からテレビ朝日がTV中継した。その関係で、朝からTVに釘付けになってしまった。結果は、ヤクルトの村上、巨人の岡本のホームランもあって、3-2で日本(侍ジャパン)の勝利! 日本が14年振りに世界制覇した。このため、テレビはどこにチャネルを回してもこのニュースで持ちきりとなった。

侍ジャパンの優勝を祝うかのように、トイレの一輪挿しに活けてあったラナンキュラスが満開となった(左)。
また、多摩川縁の「二十一世紀桜公園」の桜も一挙に5分咲になった。右端はは、キャノン本社の裏庭。

   




3月21日(火)

 一週間後、約束の10時40分にYヘルパーさんが来訪した。先週は、私がYさんとケンゾーを乗せて動物病院に連れて行き、病院前でYさんがケンゾーの篭を持って降りるのを見届けて、少し離れたコンビニの前に車を停めて待っていた。が、今日は春分の日で旗日。動物病院の向かいにある、私の通っている林歯科医院は休診日だ。歯科医院の玄関には、1台分の駐車スペースがあり、私は何時もその駐車スペースに車を停めている。休診日の今日は歯科医院に来る人は居ない。そこで、歯科医院前のスペースに車を駐車して、動物病院の中に入ることにした。これまで、淳子にケンゾーの診察を任せていた時も、私は病院まで淳子とケンゾーを車に乗せてきて、病院前で一旦下ろし、私は近くのスーパーの駐車場で診察の終るのを待つので、病院の中に入るのは今日が初めてだ。

 病院の待合室には、3~4人の先客が膝の上に犬を抱えて、ベンチに座っていた。ネコを連れている人は居なかった。診察券を淳子から貰ってないので、ファミレスのように来客ノートに名前を書かされた。30分ほど待って名前を呼ばれた。Yさんと一緒に診察室に入った。狭い部屋の中に診察台が置かれていた。Yさんが、その上にケンゾーの竹の鳥篭を置いて、院長先生の診察が始まった。この病院には何人かの獣医さんが居られるようだが、鳥の専門医は院長先生しかいない。

 先生が鳥篭の蓋を開けてケンゾーを取り出そうとしたが、ケンゾーは頭を床の竹かご間に挟まれてもがいていた。我が家の金属の鳥篭でも時々見られることだ。
「篭の床の竹の間隔が、丁度、ケンゾーの頭じぐらいなので、こういうことが起こるのでしょう。御自宅の篭の床に少し厚めの新聞紙か何かを敷いて、首が挟まれないようにしておいてください」

 その他、薬については、私の作成したリストを基に色々と説明があったが、当面、ビタミン剤とNEKTONに重点を置いて、確実に体内に摂取させることに注意して暫く様子を見ましょう、ということになった。

 家に帰ると、WBCの準決勝戦・日本 vs. メキシコをまだやっていた。TVを観ながら鳥篭の床に新聞紙を5~6枚敷いてやった。ケンゾーは、こちらの方が蹲ることができて、鉄線だけの床よりコンフォタブルな様子だった。TVの方も、侍Japanの村上選手が放った逆転サヨナラ打に話題が集中していた。村上が「村神」であることが実証されたと、興奮していた。



3月14日(火)

 今日は、午後3時頃に Dr.廣石が来訪。在宅診療NO.21があった。何時もの診療の後、左足の水疱瘡の手当。色々と訊きたいことがあったのだが、この後、ケンゾーを動物病院につれていくことになっている。簡単に打ち切って、廣石先生は何時ものようにノートPCのカバーを開けたまま帰って行かれた。

 次の診察は、ケンゾーなのだ。ケンゾーは、人間でいう”骨粗しょう症”に罹っていて飛ぶことが出来ない。だから、従来は、夜、止まり木に止まって寝ていたのだが、止まり木まで飛べないので、鳥篭の床、鉄の針金の上で寝ている。が、寝心地が良くないのだろう、床の上に置いた餌入れの中で寝るようになった。ところが、1週間jほど前、朝、起きてみると、ケンゾーは餌入れの容器の中でもがいていた。それというのも、夜中に何度か出したウンチがお尻から落下せずに大きな塊となってお尻にくっついているので、ケンゾーは容器から出れれなくてもがいていたのだ。私が手を入れて、手の上にケンゾーを乗せて、篭から取り出して、お尻にくっついていた大きなウンチの塊も取ってやった。ウンチが直ぐ下に落ちるようにしてやらないと、また同じことが起こるから、淳子に動物病院の予約を今日の4時半にとって貰っていた。ところが、その淳子も声帯炎症に罹ったとかで声が出ないので、ケンゾーを医者に連れて行くことは出来ないとのこと。その代わり、急遽、日介センターからヘルパーさん一人派遣してくれるようにアレンジしてくれたという。そのヘルパーさん(Yさん)が4時頃にやってきた。初めてのヘルパーさんなので、詳細を説明して、ケンゾーを病院に行く時の竹の鳥篭にいれて、ヘルパーさんに持ってもらい、動物病院まで車で送った。1万円を預けて病院に入るのを見て、道端に車を寄せて待った。

 1時間ほど待つと、ヘルパーさんが篭を下げて出てきた。車に乗せて我が家に向かった。車の中で、診察の報告があった。お尻の羽根にこびりついていたウンチの跡もキレイにしてくれたとのこと。

 ヘルパーさんには、一旦、我が家に上ってもらい、診察料金や薬の代金の精算を済ませた。ヘルパーさんは、会社に提出する業務日誌を書き、コピーを我が家に残して帰った。次回は、1週間後の11時に予約がが取れたので、ヘルパーさんには21日の10時40分に来て貰い、今日と同じようにケンゾーを竹の篭に入れて、ヘルパーさんと一緒に車に乗せて動物病院に行くべく、アレンジがが整った。

 右の写真は、このブログの愛読者の一人、埼玉の富士見市在住のSさんから送られてきたもの。一面、田んぼを見下ろすマンションの最上階にお住まいで、ルーフガーデンに色々な花や木を植えて、プランテーションを楽しんでおられる。今年も、モクレンの花が綺麗に咲いたと、送ってこられた。尚、このSさんには、自宅にオウムやカナリアを飼っておられて、ケンゾーの飼育について何かと相談に乗ってもらっている。



3月5日(日)

 3月に入って、多摩川の水も温んできたのだろう、このところ、カヤックの練習風景が毎日のように観られる。待ちに待った2023年のプロ野球が今月末に開幕となる。今年のタイガースは、2005年に優勝した時のタイガース生え抜きの監督・岡田彰布氏を新監督に抜擢し、必勝を期している。岡田監督がまずやったことは、選手たちがあまり優勝を意識しないよう、「優勝」という単語を禁句とし、「アレ」という代名詞を「優勝」の隠語として使うことを提唱した。先月末で終了した沖縄キャンプの最終日、宜野座球場に集まったファンを前にキャンプ終了の挨拶に立ち、「此処宜野座のキャンプで蓄積した力を結集して、アレを目指して戦います」と宣言した。今年、タイガースがセ・リーグの覇者となった時には、間違いなく、今年の流行語大賞は「アレ」に決まるだろう。

 この週末、ゆっくり、オリックスとのオープン戦をTV観戦するのを楽しみにしていた。昨日は、1回に板山の2ランで先制し、楽勝するものと期待したが、その後は得点を上げられず、逆に、頼みの青柳と伊藤将司が2点ずつ献上して、2-4の敗戦。今日は左腕の大竹を立てて雪辱するものと観ていたが、タイガースは4回に井上広大の2ランホーマーで挙げた2点のみ。一方、オリックスはタイガースの繰り出す7人の投手に11安打を浴びせて7点を挙げ、7-2でオリックスの圧勝に終わった。これで、オープン戦の阪神の成績は1勝3敗で9位。特に、四番打者の大山が極度の打撃不振で、現在の打率は.077だ。この調子だと、「アレ」の達成などは、夢のまた夢である。

 

2月28日(火)

 「1月”行く”、2月”逃げる”だからアッという間に過ぎてしまうよ」と、元気な時の妻はよく言っていた。確かに、ついこの間、新年を迎えたと思ったが、2月は今日で最後。3月に入ると、春の到来とともに色々なイベントが待ち受けているのだ。何にでも手を出していては、老体の方が悲鳴をあげることになりそうだ。

 今日は午前中に「支援者会議」が我が家で行われた。誰を支援するのかと言えば、支援の対象は御老体の私だ。誰が支援するのかと言えば、5人の支援者が居る。先ず、日介(日本介護)センター蒲田支店。ここは、毎週、ヘルパーを派遣して被支援人の生活援助をしている。担当は星野さん。次に、生活j援助の一環として、被支援人に福祉用具(歩行器)を貸与している、(株)フロンティア太田営業所。担当は神尾さん。それに、行政の側からは、包括支援センターやぐち。担当は渡部氏。今日は、この3人が来訪された。更に、他の支援担当者としては、被支援人の代理人・ケアマネジャー(次女の淳子)や将来のメンバーとして在宅診療医・廣石先生が居る。

 今般、私を被保険者とする「介護保険被保険者証」が、2月16日付けで交付されたことから、自立支援計画票を作成する必要から支援者会議の運びとなったもの。その「自立支援計画票」(B票)の「目標設定」の欄の生活目標(本人記入)として、「近くのスーパー(300m)まで車を使わずに(フロンティア貸与の歩行器を使用)行くようにしたい」と書いておいたが、大丈夫かな??

 午後からは、「ひかりホームクリニック」の在宅診療医の Dr.廣石が来訪された(在宅診療NO.20)。何時もの測定、触診等の後で、前回の左足水疱瘡の治療もやってくれた。下に、この冬最後の日没景観をお見せする。

        


2月25日(土)

 今日は、出し物に釣られて、「横浜みなとみらい」のコンサートに出かけた。プログラムには「熱狂のチャイコフスキー」とあり、演目は、オール・チャイコフスキー・プログラム。先ず、交響曲第1番「冬の日の幻想」より第一楽章「冬の旅の幻想」、次に「ピアノ協奏曲第1番・変ロ短調」、最後が「ピアノ協奏曲第2番・ト長調」という内容だ。

 「Pn協奏曲の第1番」があるだけで私には十分だ。後の2曲はどちらも初めて聴く曲だが、”メロディー作りの天才”・チャイコフスキーの作品だから、素晴しいメロディーを楽しめるに違いない。

 ソリストの藤田真央はこれまで名前も知らなかったが、24歳と聞いて、小林愛実を連想していた。が、ステージに登場した時は、瞬間「???」の印象だった。ピアノの前で深々とお辞儀をしたピアニストは、童顔の少年ではないのか、と思わせた。しかも、衣装はドレスではなく、左の写真のような黒のズボンとブレザーという出で立ちだ。失礼の誹りを覚悟の上でいえば、今上陛下の40年前のお姿を連想した。がプログラムの解説を読んでいくうちになかなかの天才であると、悟った。弱冠18歳で、「クララ・ハスキル国際ピアノコンクール」で優勝、20歳で、チャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞、審査員や聴衆から熱狂的に支持され、世界の注目を集めた、とある。更に、「繊細かつヴィルトゥオーゾを持ち合わせ、自然体で奏でられる唯一無二の美しい音色が高く評価され、次々と世界の舞台に招かれる。

”ヴィルトゥオーゾ”については、帰宅してから調べた。ウィキペディアによると、下記のような解説がある。
「ヴィルトゥオーソとは、音楽演奏において格別な技巧や能力によって名人、達人の域に達した人物を指すイタリア語。イタリアでは哲学や建築等の、学術、技術に優れた者に対しても用いられた表現だが、16世紀頃から主に芸術分野で用いられるようになる。」一言で言えば、音楽分野の名人、達人の域に達していることのようだ。

 確かに、藤田真央の演奏からは、”自然体で奏でられる唯一無二の美しい音色”と思しきメロディが会場に流れてくるのは判るが、その弾き振りが、果たして、ピアノ協奏曲第一番に相応しいかどうかには疑問が残る。この曲は、女流ピアニストなら、小山実稚恵や上原彩子のようなダイナミックな弾き振りの方が私は好きだ。更に白状すると、藤田真央が男性か女性かの疑問は未だ解けない。

 チャイコフスキーの交響曲第1番とピアノ協奏曲第2番には、あまり感動はなかったが、もう一度聴いてみたい気がする。
 



2月24日(金)

  【お知らせ】 2月14日のブログで、私のメールアドレス<r.nakamura@nifty.com>が不通になったとお知らせしましたが、22日にお助けマンのS氏がやってきて、応急手当てを施して、一応、通じるようになりました。が、再度、トラブルが発生するかもしれないので、当面の間、メインを <gronrev2120@gmail.com>とし、サブを<r.nakamura@nifty.com>とします。
  

 今日は、突然、「ユーモアスピーチの会」がセシリア館(パイプオルガン奏者・児玉麻里さん邸)で開催され、6名(女性:児玉さん、加川さん、田村さん、岩原さん。男性:末岡さん、中村)が集まった。この会は、私が幹事となって、第1回会合を 2004年10月に開催、その後、毎月、月例会開き、第185回月例会(→こちら)を2021年10月に開いてから、暫く、休会が続いていた。理由は、コロナ禍がメインだが、昨年6月に主催者の児玉さんが怪我で入院されるというハップニングがあったのだ。が、かなり回復されたので、今年の1月、ヒルトンホテルで新年会/第186回月例会(→ このブログの2023年1月22日を参照)を開いた。従って、今日の会合は第187回月例会となる。

 児玉さんは、未だ杖は離せないが、セシリア館の階段を一人で上り下りされておられ、この1カ月間にも着実に回復されているようだが、未だ全快までにはもう少し時間がかかりそうだ。今日は、午後2時~4時の時間帯に雑談形式で行われた。食事はなく、茶菓をいただきながら色々な話に花が咲いた。女性が多かったので「女子会」のような雰囲気で、児玉さんにも楽しい会となった。児玉さんからの提案で、次回からは毎月ではなく、2カ月に一度、今日のような会を持つことになりそうだ。幹事の私が、細部を詰めて、新しいスタイルの「ユーモアの会」が出来そうだ。



2月21日(火)

 今日は朝からLDKと廊下の床を掃除する業者が来て、大型機械を持ち込んで本格的な床磨きをやってくれた。その間、LDKの窓は全開に開けたままだから、ケンゾ-が寒がるので、ケンゾーは鳥篭のまま私の部屋へ移動。周囲の景色が変わったので「外へ出せ」と煩い。試しに出してやったら、ベッドの下に入ったり、パソコン棚の下に潜り込んでしまったりで、久し振りに、ケンゾーと隠れんぼと鬼ごっこで小一時間遊んでしまった。

 業者の方は、朝9時半から午後の3時半頃までかかって, LDKと廊下のフロアリングをピッカピカにしてくれた。右は、磨いた後の廊下の全景(玄関からLDK)。下の写真は、上段が「ビフォー」、 下段がアフターである。

   


             



2月18日/19日(土/日)

このところ、毎日、寒い朝が続いたが、今朝は素晴しい天気。気温もグッと春に近づいた。昨年の師走に大掃除をしなかったこともあり、今日は、大掃除準備をするために、朝11時ごろ、掃除の名人・末娘の康子がヘルパーとしてやってきた。先ずは近くのスーパー「Olympic」で必要なものを買い込んで、帰りに、下丸子公園の紅梅が綺麗ので立ちよってみた。紅梅、白梅だけでなく、菜の花も綺麗に咲いていた。

      

 その後、家に帰ったが、日頃の片づけを怠っていた所為か、大掃除の下準備にたくさんの時間を要してしまい、終わったのは、18日を過ぎていた。これで、21日に業者が来てやる、リビング床の汚れを除去するための大掃除が、無事、目論み通りキレイに仕上がれば、黒いシミで汚れている、リビングの床は見違えるようになるだろう。



2月16日(木)

 今日は第3木曜で体操教室に出席した。先週の木曜日、体操教室で熟女たちからバレンタインデーのプレゼントをたくさん頂いた。今日は、私のホワイトデーで、私の方から熟女たちにプレゼントを贈る日だ。例年通り、昨年のクリスマスと今年のお正月に行われた、茂ちゃん先生の「コスプレ」を撮った写真をA4の写真印画紙にアルバムにまとめて、クリアファイルに入れたものを皆さんにお配りした(添付右のもの)。

 このアルバムのプレゼントは、10年以上前からやっているので、「このアルバムは12枚になった」とか、「これで10枚になったわ。我が家ではとても人気があるのよ」などと言ってくれるのが嬉しい。考えてみれば、「東急BE教室」に私が入会したのは、2005年のことだから今年で18年にもなる。このアルバムに登場しているメンバーの中では、2番目の古株になる。



     

 上左の仏花 2023-w4は、チューリップ、スウィートピーに和菊で少し春を感じて貰おうという嗜好。
上右の仏花2023-w5は、カラ、スカピオサ、薔薇、和菊で少し華やかにしてみた。



2月14日(火)

 Valentine Dayの到来ものから。左は、体操教室の熟女たちからのプレゼント。9日の木曜日、体操教室の始まるときに、熟女たちを代表して茂ちゃん先生から頂戴したもの。ベル・アメール(Bel Amer)のチョコレート, フェアマイレン(Vermeiren)の焼き菓子、それに、コーヒーに入れるヴァニラやカラメルのシロップ等。右は、今日、康子から送ってきた。これならオヤジは喜ぶだろうという逸品・阪神タイガース・チョコである。確かに、虎のマークは元気が出る。今年こそ、”アレ”(岡田監督の隠語で”優勝”のこと)を手にするような気がする。


    


今日は、慌ただしい日となった。午前中は横浜からPCのお助けマン・S氏が来て、新しいプリンタ―のセットアップをやってくれた。ついでに、今使っているメールソフト(Outlook 2007)が古くなったので、新しいソフトの Outlook 365に入れ替えることをやって貰ったのだが、これが思わぬトラブルに行きついてしまった。時間的制約もあって、ソフトの入れ替えは最後まで出来ずに、取り敢えず、デスクトップ上に「新しいOutlook」と{古いOutlook」の2つの入り口を作って貰い、当面は、「古いOutlook」を使ってメールの送受信をやるということで、お助けマンのS氏は帰って行った。

 ところが、送受信をテストしてみようと、携帯からPCにメールを送ってみたが、古いOutlookには受信できない。また、古いOutlookから送信してみようとしたが、画面には「未だ実行できるようになっていません」とのメッセージが出る。ということは、私のこのPCからは、Outolookを使っての送信も受信も出来ないわけで、今や、聾唖者になったようなものだ。これを読まれた読者の方は、私宛にメールを送られる場合には下記のアドレスにお願いします。
 gronrev2120@gmail.com

  午後からは、Dr.廣石が、在宅診療NO.19で来訪された。今日は、何時もの体温、血圧、血中酸素濃度などの測定や触診の後で、5日ほど前から左足の内側を水疱瘡のようなものができていて(右写真)、何だか気持ちが悪いので、先生に診て貰った。
「特に、悪性のものではないと思うが、一応、中の液を抜いて、手当だけはしておきましょう」と言われて、手馴れた手つきで細い針を疱に挿し、疱の中の液を出し、その跡をガーゼに「プロペト」軟膏を塗って、疱の上にテープで止めてくれた。

  この水疱は、下丸子皮膚科で診察を受けなければいけないかと思っていたが、あの病院は待ち時間が長いので、暫くは廣石先生にお任せしてみよう。



2月5日(日)

 先週の日曜日の延長という訳ではないのだが、今日もミューザ川崎の「名曲全集第184回」を聴きに行った。ミューザ川崎は何と言ってもアクセスが抜群。車で20分で行ける。駐車料金は千円余り取られるが、歩行器を押して電車で行くのに較べると遙かに楽チンだ。フランチャイズのオーケストラは、これまで「みなとみらい」の神奈川フィルだったが、ミューザ川崎の場合は、東京交響楽団。こちらの楽団の方が歴史的にも古いし、格からしても加奈フィルより上だ。これからは、「みなとみらい」から「ミューザ川崎」にホームグラウンドがシフトしていきそうだ。

 今日の「名曲全集第184回」の演目は、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」とリムスキー・コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」のロシア物だ。ラフマニノフを弾くのは金子三勇士。日本人の父とハンガリー人の母のハーフだ。6歳で母親の母国に単身渡って、バルトーク音楽小学校で学び、11歳の時、飛び級で国立リスト音楽院大学・特別才能育成コースに入学、5年後には全課程取得して日本に帰国、東京音大付属高校に編入。清水和音らに師事。同音大を首席で卒業、同大学院を修了した。2008年にバルトーク国際ピアノコンクールで優勝の他、数々の国際コンクールで優秀な成績を挙げた。現在、33歳、これからの活躍が楽しみだ。

 今日のラフマニノフの2番の演奏でも素晴しいテクニックと迫力で満員の聴衆を圧倒した。オーケストラを指揮したのはイタリアから来たアレッサンド・ボナート。金子三勇士と同世代の若者だ。演奏が終わると、二人の若者が手を取り合って互いの熱演をたたえ合い、満席の観客に何度も何度も挨拶していた。

 「シェエラザード」の方は、ロシア五人組の盟友ボロディンの死が契機となって、リムスキー・コルサコフがボロディンの書き残した「イーゴリ公」の楽譜を完成させる作業をしているうちに、中央アジア風の音楽に魅力を感じて、創作意欲を刺激され、作曲したのが交響組曲「シェエラザード」であるとされている。この曲は、「シェエラザード」という名前はよく憶えているものの、どんな音楽だったか忘れてしまっていた。が、第1楽章「海とシンドバッドの船」で、魅惑的なシェエラザードの主題が登場すると、「あぁ、これだ。このメロディーだ!」と、何だか昔の友だちに出会ったような”懐かしさ”がこみ上げて来た。


1月31日(火)

 1月最後の日。富士山の辺りは暫く雪が続いたようで、今朝の富士は少し厚化粧の姿を横たえていた。

  今日は、Dr. 廣石の在宅診療NO.18があった。前回あった認知症テストのようなものはなく、何時もの体温、血圧、血中酸素濃度などの測定と聴診器による触診があった。その後の診断結果では、体調が安定してきているのが良い傾向だ、とポジティブな発言があった。昭和大学病院で定期健診を受けていた時に較べると、確かに、負担は少なくなったが、レントゲンやCTなどの検査や採血がないので、少々物足りない感じは残るが…

            



1月29日(日)

 今日は1月最後のコンサートで「ミューザ川崎」へ。今日の出し物は、東京交響楽団「名曲全集第183回」。名曲全集も183回ともなると、知らない曲が出てくる。今日の2曲とも、初めて聴く曲だ。最初は、ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲 op.49」だ。ピアノは上原彩子。後半は、エルガー「交響曲第2番 変ホ長調」。本来なら、馴染みの曲がプログラムに1曲もないコンサートには行かないのだが、今日のプログラムの「ラフマニノフと上原彩子」の組み合わせに興味があった。ラフマニノフの曲をオーケストラとピアニストの上原彩子が演奏するのだから、形式としてはピアノ協奏曲に違いない。また、上原彩子は、以前、晩年の中村紘子のピンチヒッターで何度か聴いたことがある。パンチの利いた弾き振りであった。42歳のピアニストには若さがある。ラフマニノフとは良く合うのではないか、ということでこの日のコンサートに行くことにした。だから、今日の座席(3列ー18番)はベストポジションだ。左の写真は、まだ開演前のものだが、ピアニストの左後ろは、ピアニストの指の動きをもろに観ることが出来るので、視覚と聴覚から迫力が迫って来るはずだ。

 定刻になり、オーケストラが入場。本日のコンマスは、ニキーティンではない。弱冠27歳、大分県出身の水谷晃だ。彼の才能は若い頃から評判で、10代にして東京交響楽団のコンマスに採用されている。指揮者は大友直人。私の基準からすると、異色の指揮者だ。まず、ルックスがスゴイ。長身の架台の上に上品なイケメンが載っている。時々テレビで拝見するので、日本人離れしたビジュアルには注目していたが、前から3列目の席で真正面の位置に立つと、何となく圧倒される。

 小澤征爾、森正、秋山和慶、尾高忠明、岡部守弘らの日本人指揮者に学んだ他、N響指揮研究員時代には、W.サヴァリッシュ、F.ライトナー、H.プロムシュタットらに学び、タングルウッドでは、L.バーンスタインやI.マルケヴィッチからも指導を受けた。これらの指揮振りを大友の中で自分流に消化して、上品で迫力のある指揮振りを身に着けたようだ。私はこれまで、上品な指揮者といえば秋山和慶しか思い浮かばなかったが、今日の指揮振りを観た以上、大友直人を先に挙げたい。

 さて、曲の方だが、ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」は、矢張り、ピアノ協奏曲だった。楽章はなく、主題と24の変奏から構成されている。強いて楽章に分けるなら、序奏からカデンツァ風の第11変奏までがまでが第1楽章とすれば、第12変奏~18変奏が第2楽章、第19変奏からフィナーレになり、ピアノに2オクターブにわたる大きな跳躍が求められる第24変奏で第3楽章が終るという構成になるだろうか。この構成からすると、第3楽章の激しい部分は、正に、上原彩子の本領発揮のフィナーレであった。

今年は、ラフマニノフの生誕150年に当たるため、日本各地のコンサートホールでラフマニノフ特集が演目として予定されているが、その中の一つ、「阪田知樹/ラフマニノフ「ピアノ協奏曲」全曲演奏会」というのが、9月17日(日)13:30~ サントリーホールで予定されている(→ こちら)。

 その演奏会のプログラムとして、下記のように紹介されている。

   全5曲一挙上演!
- ラフマニノフ: ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 Op. 1
         : ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op. 18
         : ピアノ協奏曲第4番 ト短調 Op.40
         :パガニーニの主題による狂詩曲 Op. 43
         : ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op. 30

 このプログラムの表記でも、「パガニーニの主題による狂詩曲は、ピアノ協奏曲第5番としての扱いだと言える。

 後半のプログラムのエルガー「交響曲第2番」は、初めて聴く曲だった。解説には、「壮大で高貴」とあったが、確かに「威風堂々」を連想させる曲だった。チェロ、ホルン、木管楽器が活躍するところが印象的だ。機会あれば、交響曲第1番も聴いてみたい。




1月26日(木)

 今日は、物書き同人の集まり「四季の会」の新年会があった。場所は「ラゾーナ川崎」4Fの「南国酒家」。昨日訪れたシネマコンプレックスの1階下のフロアーだ。車で行ける場所なので、私が推薦した。夜6時半に5人が集まった。私は、昨日と同じところに車を停めればいいと、軽い気持ちで来たが、この時季、6時を過ぎれば周囲は真っ暗。ラゾーナの駐車場に行く道が見当たらない。ウロウロしていて時間に遅れては良くないので、近くにあったTIMESのコインパークに車を駐車した。

 定刻、メンバー5人が集まった。男性3人、女声2人だ。去年までは、私が最年長だったが、今年になって、私より2歳年長の男性氏が入会した。

 私も含めて他の皆さんは、最長老のKさんに敬意を表してか、Kさんを中心に話題が展開した。私は、車が無くてもウーロン茶だが、女性も含めて他のメンバーは紹興酒を飲んでいた。此処の中華は美味しいので、私は専ら食べることに集中した。

 9時ごろ、お開きとなって、店で別れた。皆さんはJRで帰るというので、私が、JR川崎駅への道順を教えて、皆さんと判れ、私はラゾーナの外へ出た。案じていたことだが、車を停めた Timesの駐車場が簡単には見つからない。人に訊いて、歩けども、歩けども見つからず…。

 完全に迷子になって、一時は「今日は野宿か…」と、心配したのだが、 物は試しで外を走っているタクシーを停めようとするが、こういう時に限って、空車が来ない。漸く、通りかかった空車を停め、運転手に駐車券を見せて、 「此処に行ってくれれば1,000円払う」ということで、走り出したはいいが、 運転手の日本語がオカシイ。よく顔を見ると中東系の顔。何処から来たのか 訊くと、「イラン」と。これは、まずかったかな?」と心配になったのだが、 イラン人の運ちゃんがとても親切。そこいらにあるTimes の駐車場を片っ端から 覗いてみて、漸く、見覚えのある私の車を見つけて、野宿をしなくて済みそうなのでホッとした。 私の中のイラン人の格付けが、大幅に跳ね上がり、 お陰で10時前に無事帰宅することが出来た。

本日の教訓。夜に、ラゾーナ川崎に車では行かないこと。



1月25日(水)

 昨日、24日は、大田区役所が”マイナンバーカード”を交付するというので、2時半の予約時間の15分前に蒲田駅東口の本庁に出向いた。多摩川線の蒲田駅から東出口まではかなり歩くので、何時もならカートの歩行器を携えて行くのだが、今日は区役所本庁なので、歩行器無しで行った。多摩川線の改札口からグランデュオをを通り、菓子類の店が並んだところ、千鳥饅頭店の前に小さなベンチがある。先ず、そこに座って小休止。私のように肺の弱者には、砂漠のオアシスのようなベンチだ。

 肺の負担が軽くなったのを見極めて立ち上がり、JR改札口を左手に見て、エスカレーターで降りると、そこが「蒲田駅東口」だ。大田区役所は、そこから右へ100mほど歩かなければならない。何度か途中で休憩しながら、大田区役所に入る。受付で訊いてみると、「マイナンバーカードの交付」は、建物の反対の端にあるという。暫く、待合室の椅子に座って小休止。で、気合で立ち上がって、奥の方に行くと、たくさんの人が並んで順番を待っていた。私は、その行列を横目に見て、「予約のある人」と書かれた通路を通って、奥の窓口に案内された。そこで、10分程手続きがあり、漸く、カードを受け取った。

 帰りは、来た道を逆に進むのだが、グランデュオの千鳥饅頭店前の”オアシス”で小休止。休憩のお礼に、バニラ入りのチロリアンの計り売りを購入。家に帰って食べてみたが、なかなか、美味しかった。

 今日25日は、久方ぶりの映画鑑賞。前回映画を観たのは、2021年の6月15日、「いのちの停車場」だった。川崎の「ラゾーナ5階にある「シネマ・コンプレックス109」であった。此処は我が家から車で15分で行ける距離。今日も同じ「シネコン」で、観たのは「ラーゲリより愛をこめて」。ラーゲリ(Лагель)とは、ロシア語で「捕虜収容所」のこと。原作は、辺見じゅん著「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(1989年文藝春秋)だが、それがTV作品になり、アニメにもなり、昨年映画になった。

 この映画の題名だが、今世紀初頭、伊藤まい子の「見えない翼・ローマより愛をこめて」というDVDがヒットしたので、このタイトルのパロディだろうと勝手に判断して、私の興味からは遠く外れていた。ところが、先般、宇部在住の友人から”感涙にむせぶ映画”だという感想と”「嵐」の二宮くんがロシア語を上手に喋った”とのコメントが寄せられて、1964年の東京オリンビックでロシア語の通訳を務めたナカムラくんとしては、これは、一見の価値がある映画だろうと、認識を新たにした。その映画が自分の家の庭先にあるようなシネコンで上映されるなら行かない手はない。というわけで、12時40分~の上映を予約して車で出かけた。3時間半もの長い映画だったが、確かに感涙にむせぶ映画だった。第2次大戦終了直後、ハルピンを統治していた日本軍はソ連軍に攻めらて、二宮和也演じる主人公・山本幡男一家はバラバラになる。奥さんと子どもは何とか日本に帰ることが出来たが、軍人だった幡男はソ連軍に捕まってラーゲリに入れられる。若い頃からチェーホフやドストエフスキーのロシア文学が好きで、ロシア語の学習を積んでいた幡男は通訳として重宝がられるが、ソ連軍からはスパイ容疑者として扱われる。

 過酷な収容所の生活が続くが、捕虜たちの楽しみは、収容所の庭でやる野球、手作りの駒と盤で遊ぶ将棋、ハーモニカや歌、それに、迷い込んできたシベリア犬をクロと名付けて、乏しい捕虜の食事を分け与えながら飼育し、皆でクロを可愛がること。
それと、楽しかった家族との生活の想い出に耽ることぐらいだった。

 ラーゲリでのでの生活が8年を超えようとする頃に、幡男は病魔に襲われる。“咽喉がん”だ。大病院への転院を要求する捕虜たちの嘆願やストライキで転院が許されるが、時に既に遅し。死期を間近に感じた幡男は、ノートに遺書を書いて残す。やがて、幡男は捕虜仲間やクロにも惜しまれながら、病院で息を引き取る。幡男の死を察知したクロは何処かに姿を隠してしまう。

 ラーゲリに収容されてから11年後、残留日本人捕虜は、全員が日本に帰国にすることになる。ソ連兵からはスパイ疑惑の対象だった幡男の遺書が、最後の持ち物検査をパスする筈はなく、幡男の仲間たちは一計を案じて遺書の文章が、無事、幡男の奥さんや子供たちの手に渡る方法を考え出した。それは、幡男の遺書を分割し、仲間たちが手分けして、分割した箇所を暗記したのだ。そうすることで、遺書のノートは没収されたが、頭の中に暗記された内容は、無事に日本に持ち込まれて、仲間の男たちが自分の暗記した部分を手紙のように便せんに書き。1人ずつが北川景子の演ずる奥様を訪ね、手渡しで自分の担当した部分を手紙の形で奥様に届けたのだ。友人からの手紙が届くたびに幡男の妻は大泣きする。この辺りがお涙頂戴のピークだが、私が涙が止まらなかったシーンは、此処ではない。それは、残留日本人捕虜を乗せた船が、氷をかき分けながらハルピンの港を出港しようとしたときに、氷の上を猛烈な勢いで追ってきたクロの姿を認めた時であった。

 ところで、二宮君のロシア語だが、悲しいかな、難聴の私にはロシア語はおろか、スクリーンの奥から聞こえる日本語ですらよく聴き取れなかった。もし、二宮君とソ連兵が、しんみりした身の上話でも交わすなら、少しは内容を聴き取ることが出来たかもしれないが、殆どの会話が、罵り合いのような内容なので、私には殆ど聞き取れなかったことを告白しておく。ひとつ断言できるのは、二宮君はロシア語で書かれたシナリオを読んで喋っているのではなく、カタカナで書かれたロシア語を暗記して喋っているのではないかということ。ロシア語では、英語も同じだが、アクセントのある部分を大きく長く発音するのが建前で、例えば「ナカムラさん」を発音するときは、「ナカムーラさん」と、「ムー」の部分を力強く、アクセントをを置くのだが、二宮君のセリフにはあまりそれがないのだ。例えば、「ドストエフスキー (Достоевский)をロシア人が発音すると、「ダスタエ-フスキー」と、アクセントのない”o”は”а”の音に代わり、アクセントのある”e”は大きく強く長く読むが、二宮君が日本語で書かれたシナリオの”ドストエフスキー”を読むと、そのまま読んでしまうから、ロシア人の発音とは大きく違ってしまうのだ。

 右の仏花 2023-w3は、和菊の白、ブルースカイの青、アルストロメリアの赤の3色で調和を演出した積り。



1月22日(日)

 今日は「ユーモアスピーチの会」の仲間たちが久し振りに一堂に会した。「ユーモアスピーチの会」は、2004年10月に第1回の月例会を持ち、20年近い間、殆ど休むことなく毎月集まっていた。しかし、COVID-19の感染が大規模になってきてから、ポツリ・ポツリと休むことが多くなり、此処数年間は休会にすることが多かった。毎年、年末・年始には「クリスマス会」と「新年会」を開いてきたが、2021年12月にクリスマス会を新しく初台に出来た「東京オペラシティータワー」53Fにある、松阪牛割烹の「よし田」で開いた(→ こちら)を最後に、暫く、休会が続いていた。理由は、コロナ禍がメインだが、昨年6月に主催者の児玉さんが怪我で入院されたためであった。が、かなり回復されたことで、ヒルトンホテルで新年会を開いた




1月19日(木)

 先週は休んだため、今年最初の体操教室。新年最初の茂ちゃん先生演出は、のコスプレもカメラマンの私が出席する今日に延期されるとのことで、カメラと三脚(集合写真を撮るため)持参で出向いた。今年の茂ちゃんの演出は、直ぐにウサギが飛び出してくるのではなく、出てきたのは”亀さん”だった。”ウサギと亀”の物語をもじったものだと思われる。

 登場した亀が生徒たちに挨拶した後、甲羅を外して、素早い動作でウサギに着替える。そこで、生徒たちから拍手。そして、生徒たちもカメラの前に来て集合写真というシナリオだ。


     

 以下は、鏡の前に並べられた装飾用の小物、茂ちゃん先生の残りのコスプレ。



          


                 



1月17日(火)

 昨日は、保健所から調査員の方(確か、小川さんといった)が来られて、介護保険の資格について色々と質問を受けた。日常のルーティンについて色々と質問して帰られた。現在、私の介護保険の資格は「要支援1級」だから、これより下がることはない。また、1人で買物をし、食事も作ること。週に一度体操教室に通っていること、偶に車で遠出することもあるなどと話したので、等級が上がることもないだろう。

 今日は、Dr.廣石の第17回目の在宅診療があった。コロナ感染後の経過について種々質問があって、体温、血圧、血中酸素濃度等の測定に続いて、聴診器による触診があった。「すべて順調ですね」とのこと。しかし、今までやったことのない、認知症に関する質問も出た。高齢者の運転免許証の更新の時に受けるテストのような問題が準備されていて、最初にカバンの中かから、ペン、時計、テープ、チューブに入った塗り薬を机の上に並べ、暫く見せておいてからカバンに収め、口頭での質問をいくつか訊いた後で(その間に先ほどの4つの品物について忘れさせようとする意図がみえた)、「先ほど机の上に置かれた4つの品物は何でしたか?」との質問がでた。その他にも、「今日は何年。何月、何日、何曜日ですか?」といった質問も出た。運転免許更新時の認知症テストとよく似ていたので9割がた正しく答えることが出来た。

 左の花は、デンマークカクタスの鉢植えだが、珍しく開花したので、撮ってみた。この鉢植えを仏花 2023-w2と名付ける。


 [訃報] 佐古田 毅 さん

 昨年、肺がんの手術の後、山口大医学部病院に入院されていた佐古田さんは、今年に入って容体が悪化、14日に退院、16日に肺炎のため亡くなられた(宇部在住の亀田修氏からの情報)。入院されてからは、同じ病気を持つものとしてメールで励ましあってきたが、思いのほか早く旅立たれた。宇部興産/プラント事業部での現役時代は、佐古田さんは海外プロジェクトの建設現場の監督が主な仕事で、確か、南アフリカのイスコール社向けの製鉄機械の立ち上げで長間現地に滞在された。佐古田さんの現地レポートは、ファクシミリでプラント事業部長だった私に直接送られてきた。これが、佐古田さんとの最後の仕事だった。
 退職後も、年に2回東京で開催される「プラントOB会」に度々宇部から参加されて旧交を温めていた。佐古田さんは、スポーツマンで、ゴルフの他にも小野田の江汐湖を本拠とするボートの選手として活躍しておられた。同期入社の網谷君の場合もそうだったが、元気印そのものだった友人に肺がんで先だたれてしまうのが残念でならない。佐古田さんは昭和37年入社なので、享年84だと推測する。故人の御冥福を心からお祈りする。合掌!


1月15日(日)

 今日は、今年2度目のコンサート。場所は、前回と同じ、「横浜みなとみらいホール」。このホールは、昨年は殆ど改装していて客の動員もゼロに近かったはず。で、新装成ると、今年は人気のありそうな出し物を連発して、集客の回復を図っているようだ。今日の出し物は「いきる」。これは、毎日新聞社が1996年から始めた 「小児がんと闘う子どもたちを支援するキャンペイン」。 演奏会では、プロのアーティストとは別に、学生の 音楽コンクールで優秀な成績をとった学生を招き、ステージに 上げて、オーケストラの一員として演奏したり、ソロで 演奏したりする。要するに若い世代の音楽家を育成するためのプログラム。私もこれまで何度か「いきる」の演奏会に来たことがある。


 今年度招かれた学生は4人。最年少は、千葉県幕張中学3年生の深津天馬君。ピアノ部門の優等生だ。2018年のヨーロッパ国際ピアノコンクールでグランプリ・金賞を獲得した他、多くの国際コンクールで優秀な成績を収めている。今日は、最初のプログラム「ピアノ独奏」に登場、ラフマニノフ「即興の時・作品16」から、第2番・変ホ短調、第3番・ロ短調、第4番・ホ短調の3曲を演奏した。ラフマニノフのピアノ曲には難曲が多いが、臆することなく全曲弾ききった。

 他の3人は、第76回フルート部門/高校の部第1位の岡本梨奈さん(東京芸大付属音楽高校1年)、同チェロ部門高校の部の第1位の藤原寛太君(東京音大付属高校1年)、そして、同チェロ部門大学の部第1位の松本颯春君(東京芸大音楽部3年)の3人。この3人にはソロの演奏は無く、オーケストラ(神奈川フィル)のそれぞれのパートに入って、実際にオーケストラの一員として演奏した。

 プログラム第2は、弱冠27歳の山根一仁(写真左)のヴァイオリンで、モーツアルト「ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調K.218」。私には初めて聴く曲で、モーツアルトの整然とした形式で演奏されたが、イマイチ曲自体に迫力がない。今度は、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ベートーヴェンのような名曲の演奏を聴いてみたい。

 プログラムの最後は、務川慧悟(写真右)のピアノで、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18」だ。務川は山根より2歳年上の29歳。東京芸大を卒業後、2014年からパリ国立音楽院に留学、フランスで研鑽を積んだ。2019年には、フランスで最も権威のあるロン=ティボー=クレスパン国際コンクールで2位を受賞、更に2021年には、世界三大コンクールの一つ、エリザベート王妃国際音楽jコンクールで第3位を受賞して、一躍、世界の注目を浴びた。現在、ヨーロッパと日本を拠点に活躍している。

 現代ピアノだけでなく、古楽器のフォルテピアノでの奏法にも取り組んでいるだけあって、ラフマニノフの演奏には向いている。ニヒルな顔つきからもピアノを突き放したような演奏で、ラフマニノフの第2番にはピッタリだ。今後の活躍に期待したい。



1月13日(金)

 色々と考えて、新機種は現在のものと同じ aquos に決めた。昨日と同じ時間に au ショップ雪谷を訪ねた。中に入ると、ニランザン氏は他の客と話し中だったので暫く待つことにした。暫くすると、「店長」という名札を付けた人が出てきて、「ニランザンは長くなりそうなので私がお相手します」というので、昨日の経緯を説明し、故障中のaquos を渡した。店長は、あれこれ弄っていたが、15分ほどすると、顔をあげて私の方を見て言った。
「このスマホは、よろしくないアプリが暴れていて故障したようになっていました。が、私が今そのアプリをアンインストールしたので元の aqupsに戻りました。このまま使えますので、暫く使ってみられてはどうでしょうか」
と、新提案をしてくれた。技術的には、ネパール君より上級だったということか。

 折角の店長の提案なので、暫く従来の機種を使ってみることにした。家に帰って、淳子に LINEでメッセージを送って、問題なく使えることが判った。暫く、このまま使ってみようと思う。夕方、西の空はスマホの解決を祝うかのように、美しい夕焼けになった。

     


1月12日(木)

 13日の金曜日。あまりいいことはなさそうだと思っていたら、案の定、昨夜の深夜からスマホ(携帯)がダウンしてしまった。LINEで娘にメッセージを送る途中で、「スマホの性能が著しく低下しています。元に戻すために○○のクーラーアプリをインストールしてください」とのポップアップ・メッセージが出てきた。無視して操作を続けていると、何度も出てきて、「直ぐにインストールする」をクリックしないと先に進まないような印象を受けた。誘われるように「インストールする」のボタンをクリックしてみた。すると、次々に色んなメッセ―ジが出てきて、「これはヤバイ!」と直感したので、一旦、電源を切った。

 再度、電源を入れると、今の機種を買ったときに最初に出た「案内の画面」が出て、「SIMカードを挿入してください」とのメッセージが出る。SIMカードは、2年前、この機種を購入した時に入れてもらったままだ。これ以上勝手に弄くると良くないとの判断で、電源を切って,auショップに持って行くことにした。本来なら、この機種を購入した店に行けばいいのだが、矢口にあったその店は購入後3週間ほどでクローズになってしまった。ネットで調べると、以前住んでいた雪谷のauショップが最寄りの店なのでそちらに出かけた。目的の店は、中原街道沿いにある。近くには、コイン・パーキングがたくさんあるので、車で行けば15分程度で着く。

 11時ごろ着いて店に入ると、中には3組ほどの客が来ていて、スタッフは3人ほどがそちらに取られ、1人だけ1人だけ空いているようだ。その人の前のテーブルに座ると、東南アジア系の若い男だ。呉れた名刺には「Pradahananga Niranjanと書かれた横に、カタカナで「プラダナング ニランザン」と書かれていた。「何処から来たの?」と訊いてみると、「ネパールです」の答え。日本語は上手だった。

 私からスマホを受け取り、色々とチェックしていたが、驚いたように訊いてきた。
「SIMカードお持ちですか?」
「入ってますよ。2年間も使ってきたのです。SIMカードが入っていなければ使えないですよ」
「それはそうですね」

 暫く、あちらこちらを弄っていたが、
「これを修理に出すと、面倒かもしれません。新機種にすることは考えていらっしゃいますか?」
「勿論、考えています」
「それでは、新機種を幾つかお見せします」
というと、ズラリと機首が並んでいるコーナーに案内してくれた。色々と手に取ってみて、2つの機種に絞り込んだ。一つは、4万円台の「Google Pixel 6a」という機種と現在のものと同じ3万円台のAquosだ。今日の所はそこまでにして、家で良く考えて、明日、機種を決めてもう一度来るとことにして、au ショップを後にした。




1月9日(月)

 コロナ感染による自宅隔離から開放された初日、是非とも聴きたかったコンサートに出向いた。5日のウィンナーワルツは、コロナで行けなかったので、今年最初のコンサートだ。出し物は、目玉が秋山和慶指揮の東京交響楽団、ピアノのソリストは小山実稚恵によるチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 OP23」である。この曲は私の大好きな曲の一つで、演奏するソリスト、オケ、指揮者は、私には理想のコンビネーションなのだ。

 先ず、新春定番の小曲、ヨハン・シュトラウスの「春の声」が終ると、ステージの中央にピアノが出されて、ドレス姿の小山実稚恵が登場。何時ものようにニコニコ顔で観客に向かって深々と頭を下げて挨拶すると、おもむろにピアノに向かう。彼女のドレス姿の写真は全部使ってしまったので、自宅でネコを膝に置いて、寛いでいる写真をウェブから借用して紹介する。小山さんのプライベートなことは公表されていない。出身地は仙台だが、現在は東京にお住まいのようだ。以前、何かで田園調布にお住まいだと読んで、「近くだなぁ」と思った記憶がある。愛猫についても、アメリカンショーヘアで名前は「ララちゃん」とあった。これも、我が家にもその昔、「ララ」という雑種のネコが居たので覚えている。また、この写真では、小山さんの後ろに掛けてある額の画もララちゃんをモデルに描かれたようだ。こういう写真を眺めていると、演奏会のピアノに向かった時に出てくるあの迫力は何処から来るのだろうと、不思議だ。
 
 さて、当日の小山さんの演奏だが、指揮者のタクトが振り上げられると、”ファ・ファ・ファ・ファーン”と、トロンボーン(解説では4本のホルンとある)の壮大なファンファーレが鳴り響くと、ピアノの素晴しい和音とともにチェロと第一ヴァイイオリンによる有名な主題が始まる・。この段階で、私の全身に感動が走り、両腕には鳥肌が立つ。その後は、小山さんの力強いカデンツァとオーケストラの弦と管の巧みな掛け合いで第一楽章を終る。

 第2楽章は、アンダンティーノ・センブリーチェ。スローテンポで弦の静かなピツィカートにのって、フルートが牧歌的旋律を歌い出し、それをピアノが受け継ぐ。そして、”アレグロ・コンフォーコ”のハイテンポな第3楽章に進んで行く。此処でピアノは、小山さんのダイナミックな演奏が復活する。12列目の7番の席からだと、長い黒髪を振り乱してピアノの鍵盤を叩く小山さんの大胆な弾き振りがもろに見える。視覚と聴覚から小山さんの迫力が入り込んできて、全身金縛りにあったような感覚の中で、クライマックスが圧倒的な盛り上がりのうちに曲が終わる。観客からは大拍手。小山さんは何時ものニコニコ顔を深々と下げて観客に挨拶する。

 鳴りやまない拍手に答えて、再び、ピアノに向かった小山さんは、左手で静かにアンコール曲を弾いた。先ほどまでの激しい曲とは似ても似つかぬ静かな曲だった。神奈川芸術協会によると、アンコール曲は下記の通り。
   【スクリャーピン「左手のための前奏曲とノクターン OP9」 より「第2曲のノクターン」 】

 この後、最後のプログラムのドヴォルザーク「交響曲第第9番ホ短調<新世界より>」があった。嫌いな曲ではないが、先ほどのピアノ協奏曲の感激が醒めてしまうのが惜しいので、こちらは半分上の空で聞いた。そして、最後のアンコール、定番の「ラデツキー行進曲」では、他の観客に交じって拍手で曲に参加した。 

 今日はこのコンサートに行くことができて、マジで嬉しい。廣石先生、有難う。


1月6日(金)

 我が家は、淳子がケアマネジャーをしているので、コロナに伝染してもやることが速い。PCR検査を公的な機関で受けた場合、通常、「陽性」の結果が出ると、次に「オンライン診療」に移るのだが、私の場合は、かかりつけ医が在宅診療のクリニックなので、オンライを飛ばし、まず、在宅診療医が自宅に来て、自宅隔離診療が始まる。というわけで、「ひかりホームクリニック」の廣石院長が、今日の午前中に来られることになった。

 11時過ぎ、廣石先生が使い捨ての診察衣を着て入ってこられた。先ず、カバンを開けて、PCR検査キット出してこられたので、
「1月3日に、蒲田、4日には大森駅前の検査所でPCR検査をやってもらい、両方とも「陽性」の結果を貰っているのですが、3度目の検査をやられるのですか?」
「いや、どうしてもという訳ではないのですが、娘さんからは出来るだけ早くPCR検査をやってほしいと、頼まれていたのですが…」
「それはそうですが、3日と4日の検査の結果「陽性」でも、今日やれば、「陰性」の可能性はあるのですか?」
「それはないですが、私どもとしては、一旦、手配をスタートしてしまうと、費用が掛かかっているものですから…」
「そちらの事情についは、よく判りました。それなら検査を続けてください」

 以上のような前置きがあって、検査に入った。今日の検体は唾液ではなく、鼻汁だとのこと。鼻孔に注射器の針を太くしたようなものを挿入して、注射器に吸い取る。鼻の奥が痛かった。

 検査結果が出るまでの間、血圧、体温、血中酸素濃度等を測定し、更に問診、触診や聴診器での診断があった。そして、診断の結果は、「健常者と異なるところはなく、健康状態は復調していると判断される。昨年、12月31日から自宅隔離に入っているので、この週明けの9日から異状なければ、外出OKとしましょう」と、嬉しいお言葉。1月9日(月)に横浜みなとみらいホールであるコンサート(小山実稚恵のピアノでチャイコフスキーの、ピアノ協奏曲第一番」などには行けそうだ。

 参考までに、PCR検査の結果は、当然ながら、「陽性」だった。

 右の花は、お正月の飾りに昨年12月30日にに買ってきたもので、順番からすると、仏花2022-w53になるが、2022年は、既に、w52まで進んだので、この窓際の花は仏花2023-w1とする。


1月5日(木)

 昨夜は疲れて早々と眠ってしまった。今朝PCを開けたら、蒲田のPCR検査所からも連絡が入っていた。検査結果は「陽性」とある。「ガックリ」の2乗だ。これで、今日のコンサートは完全にダメ。
蒲田と大森のPCR検査場からダブルパンチを頂戴した。せめて、この感染で「オミクロン株に対する免疫が出来た」と負け惜しみを言いたいところだが、オミクロンに代わる新株が出来て、3度目の「陽性」の連絡を頂戴することになるかもしれないと思うと、何とも情けない話になる可能性もありそうだ。

 せめて、夕焼けの空と多摩川を眺めて心を落ち着かせたい。

   



1月4日(水)

 今日は、娘たちが捜してくれたPCR検査場で有料だが、直ぐに結果の出る「大森検査場」に行くことにした。此処も東京都の管轄下だが、無料検査とは別に、「通常」、「迅速」、「超迅速の3段階に分けて料金設定をしている。午後1時までに受付をすれば「超迅速検査」なら、当日の18時までに検査結果が送られて来るというもの。

 「超迅速」で頼めば、今日中に検査結果が届くという。それなら、挿すのコンサート出発前に結果が分かるということだ。12時前に家を出た。ウェブ情報では、「大森駅前芳花園ビル1F]とあるので、駅前の通りを行ったり来たりして捜したが、ビルらしき建物見当たらない。道行く人に訊いても「そんなビルは知らねぇなあ」という反応。道路の傍らで何かの工事をしていた人に訊いてみた。
「この辺にビルなんてないよ。何かのお店を捜しているの?」
「いや、お店じゃないですが、PCR検査所という…」
「それなら、その店に看板が出てるよ」
と、指さす方を見ると、道路の斜め向かいに、シャビ―な造りの居酒屋のような店があり、そこのガラスの引き戸の向こうに「PCR検査所」という旗が見えた。工事のオジサンにお礼を言って、信号まで歩き、信号で向こう側に渡って、居酒屋風の店に行ってみた。ガラスの引き戸を開けて中に入ると、10人近い学生風の男女が待っていた。
「ここで超迅速検査というのを受けられるの?」
「ハイ15,000円いただきます」と、20前後の長身の若者が答えた。
そこで、代金を支払い、昨日蒲田でやったようなエントリーがあり、検体の唾液を採って提出した。
「本日18時までにスマホにメールで結果を連絡します。有難うございました。」

店を出て、駅前からタクシーで帰宅した。疲れたが、何だかホッとした。「これで、今日中に結果が貰える!」
そして、その夜、大森検査所から「陽性」の連絡を受けた。ガックリ!


1月3日(火)
 
 東京都の福祉保健局がやっている、「ブレインクリニック」に、PCR検査を受けに行くことにした。今年の営業開始は1月3日10時~ということなので、9時過ぎに車でスタート。蒲田5丁目の「」タイムズ第22」のパーキングに車を駐車、歩行器を車から出して、隣の「タイムズ第34」のパーキングに設営された、テント小屋のPCR検査場に入った。

 時間は、9時55分で私が一番だった。係の人に訪問の目的を告げ、登録の手続きに入った。住所・氏名などを紙の上に書いていくものだろうと、ボールペンを出して、テーブルに腰を掛けた。対面したのは、如何にも学生アルバイト風の若い女性。
「ペンは要りません。スマホを出してください」が、その女性の第一声だった。

 私は、80代にしては、PCに関して他人より詳しい積もりだが、スマホに関しては、長らくガラケイ・ファンだったからか、全くの無知に近い。目の前に差し出されたQRコードを「読み取ってください」と言われてもどうしていいか分からない。以前、孫の直くんに教えて貰った筈だが、思い出せない。モタモタしていたら、若い女性がしびれを切らして声をかけた。
「よかったら、私がやりましょうか?」と、手を差し出した。
 ”渡りに舟”とばかりにスマホを渡して、彼女の鮮やかな手つきに感心して見とれていた。
 20分程度で彼女の作りあげた事前登録はとても良くできていた。

 その後、検体の採取があり、ストローのようなもので、小さな試験管の中に所定の量の唾液を入れて提出。結果は2日~4日後メールで連絡があるとおいうことで、できれば、明日中に連絡いただければ嬉しいというリクエストとお礼を言って検査場を後にした。時間jは10j時15分。その時でも、来ていた人はまばらで、3人か4人程度だった。

 私が、今日、この検査場で検査をしてもらったのは、5日の13時~、横浜「みなとみらいホール」でどうしても聴きたい新春コンサートがあるからだ。チケットも半年前に購入していた。折角、「みなとみらい」まで聴きに行くのだから、コロナは”陰性”だと分ってから行きたい。そのためには、出来れば4日には、試験結果を知りたい。ところが、4日以降に来たのでは、自宅隔離中の身で混雑するコンサートに出かけるわけにはいかない。という訳で、もっと早く結果が出るPCR検査を捜すことにした。次女の淳子と四女の康子もウェブ検索して、他の検査場を捜してくれている。

 

1月1日(日)

                   

               新年、あけまして オメデトウございます。本年もよろしくお願いいたします。

 当初の計画では、次女・淳子、四女・康子と私の3人で初詣に出かける計画だったが、昨日の成り行きから、在宅隔離期間中なのでダメ。どうも納得がいかないので、淳子に淳子の会社で使っている検査キットを入手して持って来てくれるよう頼んだ。先日、ドラッグストアで買ったものは、信頼性に欠けるのかもしれない。別の検査キットで確かめてみようという心算である。

 昼頃に、淳子が検査キット持参でやってきた。今度のキットは東亜産業製で「新型コロナウィルス抗原検査ペン型デバイス」との名前がついている。検査のやり方は12月30日にやった小林薬品のものとほぼ同じで、十分に唾液kを塗りつけた唾液コレクターを抽出バッファに差し込んで15分待つと判定の線が出るでる。「赤線2本だと陽性」、「上部に1本だと陰性」、「赤線が現れないか、下部に1本だと無効」となる。右が検査結果だが、これは、「上部に赤線が1本」、つまり「陰性」だ。

 12月30日の小野薬品の検査キットでの結果は「擬陽性」だったが、今度の検査では、「擬陽性」が破棄されて「陰性」と判定されたものと受け取っていいのだろうか。こうなると、益々、PCR検査に最終判定を託したくなる。というわけで、東京都の福祉保健局が 主催しているもので、街のコインパークにテント小屋を作って その中でPCR検査をやるというものが、3日から始まるという。物は試しで、明後日に「タイムズ蒲田第34出張所」(→こちら )というところに行ってみようと思う。




2022年(令和4年)


12月31日(土)

 今年も猛スピードで1年の最後の日を迎えた。そして、1年の最後に、Corona-19に感染したかもしれないという事態になった。自分では自覚症状は認識できないので、感染はないだろうと、思いながらも一抹の不安は拭えない。早く、PCR検査を受けて”陰性”のエビデンスが欲しい。しかし、現状では「、PCR検査をしてもらえるのは早くて1月5日と言われている。在宅診療医以外にPCR検査をやってくれるところはないのか。誰にも答えがないまま、在宅隔離期間になってしまっているのだ。

 そんな状況とは関係なく、今年最後の夕焼けは西の空に沈んでいく。

                 


12月30日(金)

 今年も後2日でお終い。今日は正月の買物をするのに、次女の淳子と車で出かけた。先ずは、東雪谷の肉店「アンデス」へ。これまで、何度かスキヤキパーティをやって判ったことは、スーパー「OK」の「A5等級黒毛和牛」よりも「アンデス」の「A4相当の和牛」の方が美味しいということだ。来年の1月2日にやることにしている身内の8人が集まってのスキヤキ・パーティの牛肉を買いに行くのだ。この肉屋は、前の家で何時も買っていた店で、「中村さん宅のスキヤキは美味しい」との評判がたったほどだった。

 店には何人かが買いに来ていた。私は、ショーウィンドウの中の「黒毛和牛切り落とし」と書かれた商品を指さして「これを1.6Kg下さい」と注文した。ウィンドウの中のこの商品は殆ど無くなってしまったが、冷蔵庫には未だ沢山あるはずだろう、と推定して後ろの人に迷惑がかかることは無かったはずだ。

 その後、正月のお花を近くの「清水花園」で買った。此処も以前よく利用した花屋で、今月15日のブログに書いた「木瓜の花」もこの店で買ったものだ。雪谷での買い物はそれだけで、車を下丸子に向けてスタートした。帰る車の中で淳子と色々と話じたが、その中で、27日の在宅診療の様子を伝えた中で、体温が37℃あったこと、昨日はコンサートの受付での温度検査は37.3℃でパスしたことにも触れた。
「一度、検査キットを買って検査してみたら?」との忠告。ケアマネをしているとそういう発想になるのだろう。

 下丸子に帰って、先ず、「東武ストア」でお正月関係の食料品や小物を買って店を出た。直ぐ近くにドラッグストアの「Welpark」がある。淳子がネコの餌がほしいと言うので、Welparkにも車を停めて店に入った。入り口にCovid-19用の検査キットがあったので、それを2セット買って店を出た。家に帰ってから、参考までに検査キットを使ってみるか、ということになり、淳子の指示通りに唾液の検体を取って検査機の中に入れた。待つこと15分。出てきた結果をみると「陽性」とある。ナヌ! これは大変だぞということになった。その後の経過は、スキヤキパーティ出席予定の皆に送信したメールに詳しいので、そのコピーを紹介する。

 「皆様へ  昨日の朝、鼻汁が出て、鼻風邪を引いたかもしれないと、 熱を測ってみると37℃でした。平熱が36.3~36.5なので、 少し熱がある感じでした。午後に、横浜「みなとみらいホール」 でコンサートがあり、行きました。受付で温度検査がありましたが、 37.3℃でパスしたので、そのままコンサートを最後まで聴きました。 今朝になると、鼻汁は殆ど止まりました。体調として特に問題に なることはなく、予定通り、淳子を伴なって、車で正月の買い物に 出かけました。道すがら、昨日微熱があったことを話すと、一度、 検査した方がいい、ということになり、買い物の最後にドラッグ ストアで「抗原検査スティックex neo/小林薬品」という検査キットを 買い求め、家に帰って淳子(ケアマネ)の指導の下に、唾液採取して 測定しました。その結果は下記の通りでした。
 
 

上記の検査キットで青線1本だと「陰性」、赤線2本だと「陽性」、赤線1本 だと「無効」という説明書ですが、上の結果では、赤線1本は太線、もう1本は細い 線で表示されていました。 「これは、擬陽性」ではないか、と判断し、いずれにせよ、一度、正式な PCR検査を 受けてみる必要があるとなり、淳子がかかりつけ医(在宅診療医)に電話で話した ところでは、主治医は不在でしたが、宿直担当医のコメントは以下でした。
・一度、PCR検査を受ける必要がある。
・しかし、年末ということで、検査できるのは、最短で、1月5日となる。
・それまでは在宅隔離期間としてください。

上記指示により、2日の集まりは中止した方が良いと判断しました。 皆様には楽しみにして頂いていたものと思いますが、万一のことを考えると 2日のスキヤキパーティは中止にした方がよいのでは…という判断に 至りました。 そういう次第で、2日のパーティは中止とし、隔離期間が開けてから、チャンスが あれば、皆様と集まりたいと考えます。その時は、また、こちらから連絡させていただきます。 このような事態になったことは、誠に残念で申し訳ないことだと存じますが、何卒、御賢察 下さるようお願いします。

 スキヤキ会が中止となれば、かなりの自由時間ができた。という次第で、このブログを書いている次第。


12月29日(木)

 いよいよ、暮れも押し迫ってきた。一昨日、27日には、在宅診療 NO.13/Dr.廣石が来訪。このこの日は、血圧、血中酸素濃度、脈拍、聴診などすべての数字が順調だったが、体温だけが37℃と少し高めだった。廣石先生は、体温の37℃については、十分許容範囲内で特に問題はないということで、NO.13の在宅診療も簡単に終わった。翌28日には「多田周子忘年会」が、銀座のライブハウス「Lounge ZERO」であり、これに加することにしていたが、"第8波のCOVID-19”で東京の感染者が大幅に増加したためか、急遽、中止になった。翌日の今日は、横浜の県民ホールで「ファンタスティック・ガラコンサート2022があり今年最後のコンサートとして」行くことにしていた。昨日の「Lounge  Zero」が中止になったので、今日も中止かと思って、神奈川芸術協会に電話してみたら、「予定通り、催行します」の答え。これは、小池都知事と黒岩神奈川県知事の違いだろうと、納得して出かけた。

 一昨日、37℃の体温だったので、県民ホールの受付にある体温検査では、少し緊張したが、「37.3℃でパス」となった。この「ファンタスティック・ガラコンサート」は、毎年、年末に行われ、楽しみにしているのだが、今日のプログラムは少し違っていた。というか、昨年のものと似ていた。以前は、松尾葉子さんというベテランの女性指揮者だったが、昨年からは40代になったばかりの三ツ橋敬子さんという派手な指揮振りの指揮者に代わっていた。また、昨年からはバレエが入り、東京バレエ団の水野美香さんらが登場したが、今年も全く同じ顔ぶれだった。これまでと大きく違うのは、テノールの宮本益光が居ないこと。このテノール歌手は、歌だけでなく、MCの役割も上手で、特に硬派のバイオリニスト・石田泰尚との掛け合いは漫才に近いものがあった。その宮本益光が不在だが、後は昨年とほぼ同じだった。キャストの顔触れについては「
こちら 」を参照願う。

 プログラムの中では、オペラのアリアの中から、プッチーニの蝶々夫人から「ある晴れた日に」を歌ったソプラノの森谷真理がとても良かった。思わず、60年以上前に観た映画「蝶々夫人」の最後に八千草薫が口パクで歌ったシーンを思い出して、涙が滲んだ。その昔流行った二葉あき子の「水色のワルツ」じゃないが、ポケットから水色のハンカチを出して、涙の跡をソッと隠していた。


12月22日(木)

 今年最後の体操教室で、茂ちゃん先生はクリスマスのコスプレだ。先ずは、サンタクロースだが、確か、この風船男はこのダンススタジオに場所を替えて最初に登場したコスプレだった。「まるで、貴景勝だね」と言ったことを憶えている。

 集合写真を撮るときは、貴景勝では画面からはみ出してしまう。茂ちゃん先生は貴景勝の風船から出てきて、全員が頭にお飾りを着けることにした。私は、トナカイの角を借用した。こういしたアクセサリーもすべて茂ちゃん先生が車に積んで持参するのだ。自分よりずっと高齢の生徒たちに喜んでもらおうとの心積もりなのだ。 

 こうしてみると、生徒は全部で6人だが、前回に比べると3人少ない。先般亡くなられたY.Nさん、膠原病の治療中の島田さん、お宅を転居中の三井さん。後の2人には会えるだろうが、Y.Nさんとはもう会えないと思うと寂しい。右の写真で、私の次に高齢のI女(前列左)が、「中村さん、私より先に辞めないでネ。約束よ。」と仰るが、そんな約束をした覚えはない。尚、下の写真は、茂ちゃん先生の最後のお色直し。

    



12月15日(木)

 今日は体操教室。インストラクターの茂ちゃん先生と私以外の生徒たちはY.Nさんの御不幸を未だ知らない。そこで、事前に茂ちゃん先生と打ち合わせておいて、2人でY.Nさんのその後の経緯について生徒の皆さんに説明し、その後、私の音頭で全員が1分間の黙禱を捧げた。Y.Nさんの姪御さんからは、香典の類はお断りと言われているので、茂ちゃん教室としては、全員で黙祷することで弔意を表したことを淳子を経由して姪御さんに伝えて貰うことにした。体操の後、駐車場に停めておいた車に乗ってエンジンをかけたが、何時もなら助手席に乗り込んでくるはずのY.Nさんの姿はない。一人淋しく車を発車させた。

 夕方から横浜・みなとみらいの Ocean Gate ビルで「四季の会」があるので出向いた。本来なら第4木曜日なのだが、師走の月末は慌ただしいので1週間繰り上げた。今日は、何時もの固定メンバー4人の他に、牧元さんが、体験入会の新メンバーを連れて来られたので挨拶した。小泉澄(コイズミ・キヨシ)さんという、84歳の方。ウェブ検索してみると、牧元さんと同じデジタル分野の方で、業界誌に種々の寄稿をされているようだ。もし、入会されるなら、体操教室では私の先輩は居なくなったが、「四季の会」では、2才先輩が来られることになる。

 この日の課題は、「粒」。難しいテーマなので、以前書いた「木瓜(ボケ)の花が咲いた」をプロローグとし、「木瓜の花が枯れた」という新作をエピローグとする二部作を書いて提出した。他のメンバーは何れも課題を断念して「自由課題」で提出していたので、一際精彩を放った。
作品は→
こちら

 右の仏花 22-w52は、前回の仏花と重複しているので、後日修正する。→ w52は既に12月3日のブログに紹介した。そこで、ここでは w53を紹介する。和花をたくさん詰め込んだようだが、主役は中央に一輪だけ咲いている水仙。このマンションの花壇でも水仙が、毎年、クリスマス頃に開花する。が、今年は、大規模修繕で、花壇は取り壊されて現地事務所のバラックが建っていた。今は、現地事務所も取り払われたが、水仙の姿は見当たらない。以前は花壇だった場所から奥の庭園を写真に撮ると下の状況。

   



12月14 日(水)

 昨日は、午後にひかりホームクリニックの廣石先生が一人で来られれて、NO.12 の在宅診療があった。今日は、午前中に林歯科に出向いて月に一度の定期検診を受けた。林先生は、お花の好きな方で、何時も鉢植えの季節の花を診察台の前に飾って、治療を受ける患者を和ませてくれる。今日は、大きなポインセチアの鉢が飾られていた。早速、鉢植え談議が始まる。
「このポインセチアは、毎年、買われるのですか?」
「ええ、古い鉢は花屋さんが引き取ってくれて、新しい鉢植を買います」
「ポインセチアは、花が落ちてしまっても、翌年、新しい花を咲かせることが出来ますよね」
「そいう言われていますが、実際にやってみると面倒なので、新しいものを買ってしまいます」

 確かに面倒だ。ポインセチアは春になると、花(実際は赤い葉だが)が全部落ちるので、後は、毎日水をやることと、1日の半分は、黒い布を掛けるか、クローゼットの中に入れておくかして、植木の季節感覚を狂わせるのだ。果実で言えば、5~6月に実をつけるイチゴを富士山の中腹など、寒いところに運んで、10月頃に平地の温室に移して、5月頃と錯覚させて結実させるのと同じ方法だ。私は、一度だけ成功させたことがある。

 診察を終えて、スマホのメールをチェックしてみると、淳子からのラインで「内藤さんが亡くなられました」とのメールが入っていた。これには、驚いた。内藤さんは、体操の「茂ちゃん教室」の最長老の生徒だ。93歳と高齢の独居老人なので、私がケアマネジャーの淳子を紹介し、淳子が介護関係のお世話をしていた。先月末に足に激痛があるということで、内藤さんの姪御さんが、国立医療センターに入院させた。入院して、新たに検診したところでは、足の痛みは「下肢血栓」と診断された。が、他にも胆管がんが見つかった。更に、この胆管がんが脳に転移しており、脳梗塞の兆候も見受けられたという。そして、直接の死因は脳梗塞との診断だった。

【訃報】Y.N さん(享年93)

 久が原での体操教室の最高齢の生徒で友人。12月12日、脳梗塞で御逝去。

 Y.Nさんは、私より11歳上だが、身体は私よりはるかにしなやかで身のこなしにもぎこちなさがない。ただ、お宅が、徒歩20分ぐらいの高台にあり、来るのはいいが帰りは坂道を登ることになるので、高齢者にはキツイ。今年の夏からは、毎回、帰りには自宅まで車でお送りしていた。
 先月中頃に足を痛めて、ずっと休んでおられた。先月の25日に目黒区の病院に入院され、下肢血栓と診断された。が、他に胆管がんも見つかり、脳に転移して脳梗塞を起こしていたという。お元気の時には、30年間医者に罹ったことがないと、自慢しておられたが、ガンには勝てなかったということだろう。Y.Nさんが亡くなられて、私が最長老になる。但し、Y.Nさんの年齢まで生きる自信は毛頭ないが…。


12月10日(土)

 今月、早くも3度目のコンサートで、一週間前と同じ「みなとみらいホール」へ。今日の出し物は「クリスマス・アヴェ・マリア」。ウィーン弦楽合奏団の演奏とヴォーカルは、ソプラノのユスティーナ・コジェニとメゾソプラノのメガン・カーツが唄う。名前の通り、今日はシューベルト、グノー、カッチーニの「アヴェ・マリア」を二人のヴォーカルで唄う。合奏団を指揮するのは、ヴィオラ奏者で芸術監督のトマシュ・ヴァブニッツ。この合奏団の構成は、オーケストラの配置を真似て、第一ヴァイオリを率いるのが、東洋系のヴァイオリニスト、ユーキ・ウォン。第二ヴァイオリンのポジションにはヴィオラ奏者が入って、率いるのは芸術監督のヴァブニッツ。総勢17人のの合奏団だ。

        

 プログラムは、先ず、モーツァルト「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364より第3楽章」から始まった。これは、この合奏団のキーマンが、ヴィオラのヴァブニッツとヴァイオリンのユーキ・ウォンということから判断して当然の選曲だろう。その後は、バッハの「G線上のアリア」やマスネーの「タイスの瞑想曲」などの小品に混じって、グノーとカッチーニの「アヴェ・マリア」をソプラノのコジェニが歌って、前半を終えた。

 後半は、モーツァルトの「ディヴェルティメント」 K.136に始まり、サン=サーンスの「白鳥」やマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲等の小品を交えて、メゾ・ソプラノのメガン・カーツがシューベルトの「アヴェ・マリア」とモーツァルトのの「ハレルヤ」などを歌った。アンコールは、サービス精神旺盛で、「聖夜」を日本語で歌い、モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」、更には坂本龍一作曲の「戦場のメリークリスマス」と、3曲も素晴らしい演奏を聴かせてくれた。


12月7日(水)

 今日は、今月2度目のコンサート。とは言え、クラシックではなく、多田周子のコンサートだ。「虹色の花束をあなたに」とのキャッチフレーズで、銀座の「ヤマハホール」であった。このコンサートでは、私も集客のお手伝いをしたので、私を含めて10人の客がヤマハホールに集まった。夜の7時開演なので、少し早めに出て、次女の淳子、四女の康子と一緒に、ヤマハホールの銀座通りを挟んで筋向いに向かいにある「資生堂パーラー」のカフェで軽い食事を採った。7時前に会場に入った。私がチケットを手配した人たちは全員来ていた。2列目の5つの席に、次女の淳子、会社時代の同僚F女、私、体操教室の茂ちゃん先生、生徒では唯一私の先輩のI女の5人が座った。後ろの3列目には康子、会社時代の同僚A氏夫妻、友人Sクンの関係者2名が座った。

 定刻7時、ステージに照明が当たると、赤いドレスの周子さんが登場、「ありがとう ふるさと」を唄った。この歌は、兵庫県の観光キャンペイン・ソングになっている、周子さんの持ち歌の中では最も古い曲だ。唄いなれた曲なので、先ずは喉ならしというところか。ヤマハホールでは写真撮影は厳禁なので。写真は周子さんのブログから拝借した。周子さんは、ライブでは、持ち歌、カバー曲、童謡を、適当に混ぜて唄うのだが、今日は大半が持ち歌で、カバー曲はユーミンの「ひこうき雲」、童謡では「浜辺の歌」ぐらいで、後はすべて持ち歌で、それも随分以前に自分が作曲しものが多かった。

 それと、今日のバックで伴奏を受け持ったアーティストは、今回が初めてのメンバーたちだ。キーボードの河合秀史、パーカッションの岩田(ガンタ)康彦、サックスの山田真也などの顔触れとは今後もバックの演奏を依頼する意図があるのだろう。早く自分の持ち歌を憶えてほしいということかもしれない。それと、トークの中で話していたように、「リハーサルの時に、自分が作曲した古い曲をメンバーに紹介したら、面白いから今日の演目に入れたらいいんじゃないと言われた」こともあるようだ。確かに「金木犀の咲く頃」とか「月を盗む」などは面白い歌だと思う。

 今日は、何時ものようにトークが余り入らず、次から次への精一杯の歌声を披露したので、喉を痛めてなければいいが…。最後のアンコールに応えて唄った、カッチーニの「アヴェ・マリア」何度も歌っている曲なので安心して聴いていたが、私の本音は、シューベルトの「アヴェ・マリア」が聴きたかった。

 アンコールが終わって、舞台の照明がが落ちると、私の関係者たちの反応は素晴しかった。茂ちゃんや I女は「感激した。また聴きたい」と興奮気味に語った。また、今年の4月に周子さんを三鷹の三木露風霊園と”赤トンボ公園”に案内したF女は、「“赤とんぼ”のイメージで臨んだので、ちょっと意外というか、色々な顔をお持ちで興味深く拝聴しました。 “周子マニア”のオジサマがいるのもうなずけます」との面白い感想だった。

 まぁ、今日のコンサートは大成功の範疇だったと思う。



12月3日(土) 

 今年のカレンダーも、いよいよ、残り1枚となった。しかも、最後の月は1年中で最も慌ただしく、たくさんの仕事がある月だ。2022年最後のひと月を上手く乗り切れるだろうか? 毎年、危うい気持ちで最後の月を迎えるのだが、何故か、無事に新年に突入している。今年もそうなればいいのだが…。例年、師走の行事として忙しいのは、片付け、年賀ハガキ、コンサート、ホームページの作成、依頼を受けている英語への翻訳などだが、今年も同じ課題が目前に横たわる。

 今日は、その年末行事のひとつ、コンサートだ。今月最初のコンサートは、新装なった「みなとみらいホール」での「仲道郁代、ベートーヴェン:ピアノソナタ全曲演奏会」の第Ⅱ期/第3回の日だ。演目は、ピアノソナタ第6番、第17番≪テンペスト≫、第22番、第23番≪熱情≫、第28番の5曲だ。私のお目当ては「第23番≪熱情≫」だ。この曲は、ピアノソナタながらコンチェルト(協奏曲)に劣らぬ迫力がある。果たして、今日の仲道郁代の演奏もド迫力の弾き振りで、大いに感動した。

 帰りに、ひとつ上の階に上がり、開設25年を迎えたクリスマスツリーと、マチネーだけに未だ日差しのある屋上庭園「クインズ・スクエア」の光景をも見学して帰った。

 下は仏花(2022-w51)。ガーベラ、スプレーカーネーション、ヒペリカムにスターティスを加えて、4色のバランスを狙ったが、フラッシュを点けたので薄い色が飛んでしまった。

   


11月26日(土)

 今日は、宇部興産[現:UBE(株)]/プラントOB会が、昼に永田町の上海大飯店であった。コロナ禍は第八波に入り、参加者は12人しかなかった。私は、「プラントOB会」のHP(→
こちら)の管理人なのでサボるわけにはいかない。カメラ持参で出かけた。

 このOB会は今回で28回目を迎える。毎回、固定メンバー中心に15名ほどが集まる。10年前の第12回OB会も15名の出席者だった。この時は、私はシニア・テーブルに座っているが、私より上に6人も居た(原、中條、吉村、松下、中野、三山の諸氏)。が、今度の会合では、私は上から3人目だ。段々淋しくなる。

 この日のアルバムを、目下、作成中だが、前回の第27回の時に大きな失敗をしてしまい、プラントOB会のアルバムが上手く更新できなくなってしまった。現在、お助けマンに声をかけたり、自分で色々考えたりしているが、何しろ、後退する一方の脳みそだけに難しい。上手く更新できた時には、また、ご案内します。取り敢えず、右に、集合写真を紹介します。(後日、何とか格好になったようです)

 左は、仏花2022-w49。デンファレ、ピンポンマム、スターティスをだだ挿しただけだが、何となくバランスを感じる。







11月15日(火)

 本日の出席者は、OB27名、現役14名。OB27名の内7名は知らない方、 現役の14名は半分以上が知らない顔だった。 驚いたのは、イトチャンコト糸口氏が出席していたと。彼は“嗅覚過敏症”という奇病の持ち主で、 宇部の自分の家では耐えられない臭いがあるそうで、目下、伊豆の下田に貸別荘を借りて 一人で生活していて、その様子は、上海から一時帰国のKi氏から聞いたばかりだった。彼と会うのは久し振りなので、彼が左隣の席まで引っ越してきて随分話した。今日のテーブルは指定席だったが、左隣が誰だったか思い出せない。右隣りは、山本謙会長で、以前「ユズル君」と呼んでいたことも あり、久しぶりに旧交を温めた。 

 最初に、この3年間で亡くなった方々の「物故者リスト」がスクリーンに映され、1分間の黙祷を捧げた。全部で11人だが、1人を除いて全員が80代か、90代。唯一、喜多村尚也氏だけが、67歳の早逝であった。喜多村氏は開発銀行からの出向者で、宇部興産では私が事業部長をしていた環境事業部に引き受けたので、今日の出席者で喜多村氏のことを知っている人は殆ど居なかった思う。

 帰りに蒲田の「メガネ・ドラッグ」に立ち寄ったので、帰宅した時は、西の空に陽が沈むところだった。


11月12日(土)

 久し振りに、コンサートを聴きに行った。多田周子ライブやキエフ・クラシック・バレーの「白鳥の湖」などはあったが、本格的コンサートになると、8月7日の東京フィルと服部モネのメンコンまで遡る。今日は、「ミューザ川崎」の名曲全集第181回。演目はフランスもの。ラヴェルの「「ピアノ協奏曲ト短調」とベルリオーズの「幻想交響曲」。東京交響楽団で指揮は川瀬賢太郎。ピアノは三浦謙司だ。

 ベルリオーズの小曲:序曲「ローマの謝肉祭」に続いて、ラヴェルのピアノ協奏曲だ。ベルリオーズからサン=サーンス、ドビュツシーを経て、ラヴェル。フランス音楽の流れの中でラヴェルは新たな息吹をもたらす存在だった.。1929年、初演された「ボレロ」はラヴェルの代名詞になった。このピアノ協奏曲も同じ年に作曲に着手され、2年後に発表された。現代音楽のジャンルと重なる時代の作曲とあって、第1楽章では、ジャズ風の音階が随所に取り入れられている。

 ピアノの三浦謙司は初めて聴いたが、テクニック、表現とも危うげなく、信頼できるピアニストの印象が強く残った。解説によると、1993年、神戸の生まれとある。4歳の時、自らの意思でピアノを始め、13歳の時に英国の音楽分野の奨学金を取得、単独で英国に渡り、以降、欧州を中心にピアノを学ぶ。18歳でベルリン芸術大学に入るが、1年で中退。一旦、音楽の世界からから離れて帰国する。21歳の時、再びドイツに渡り、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学に入る。そして、26歳の時、 ロン・ティボー・クレスパン国際コンクールで優勝及び3つの特別賞を獲得、一躍、世界にその名を知られることとなる。 それまで、活躍の中心が欧州だったため、その名前すら私は知らなかったが、同郷のよしみでもあり、今後は三浦謙司を陰ながら応援したい。

 そして、本日の目玉、ベルリオーズの「幻想交響曲」だ。この曲は、ラジオなどで何度か聴いたことはあるが、生演奏は初めて。実際に生で聴いてみて、これほど激しい曲だとは思わなかった。特に、第4楽章の「断頭台への行進」では、無性に鳥肌が立った。オケの迫力に加えて、指揮者の川瀬賢太郎の大熱演が大迫力の演出に加担した。

 川瀬賢太郎は、2014年、私がサポーターをしている神奈川フィルに、 常任指揮者として入団して来た。当時は、まだ、30歳に なったばかりで、恐る恐るの指揮振りだったのを憶えている。 それが、3~4年前から他のオーケストラの指揮をするように なって、徐々に大胆な指揮振りになってきた。 そして、この日の大熱演。“炎のコバケン”(小林研一郎)にも 似た指揮振りであった。



11月5日(土)

 今日は、昼に、孫のナオ君が来ることになっているので、焼肉のランチを準備した。スーパー”OK”でA5等級の黒毛和牛カルビーを買ってきたが、どうもこの店のA5等級は表示に偽りがあるように思えてならない。値段が安いのでツイツイ買ってしまうが、スキヤキの黒毛和牛A5等級も、食べ較べをすると、東雪谷のアンデスで買って来る4等級の黒毛和牛に孫たちの軍配が上がるのだ。ナオ君が来るときには必ずやって来る淳子は今日は自宅待機。というのは、数日前から体調を崩し、PCR検査を受けてみると”陽性!”とのこと。今度のオミクロン型コロナウィルスは感染力が強いようだ。末娘の康子も1週間ほど前に会社で数人がコロナウィルスの感染したと聞いていたが、康子もPCR検査で陽性だった。暫く自宅療養で会社にはリモート出勤だったが、昨日辺りから職場復帰したとのこと。何でも、会社ではデザインコンペの案件をいくつか抱えていて、とても忙しいとのこと。

 午後、デジタルお助けマンのナオ君には下記の3点の仕事をお願いした。
・ずっと放ってあった、リモート会議用端末機”Mee Pet”の組み立て。
・これも暫く放ってあった、学友のM氏から送ってきたロシア語入力用のキーボードの接続。
・切断されていたY女とのLINE回線の復活。
 どれも、難なくこなしてくれて、ナオ君! "Thanks. You did good job !"

 夜は、以前、申し込んでおいた、【動画配信】産経新聞特別講演会 WEB配信が届いていて、配信がつながるのが今日までということで、ゆっくり講演会を聴くことにした。講師は、産経新聞の阿比留論説委員と雑誌”正論”の田北編集長だ。ともに、保守の論客なので、興味をもって拝聴した。阿比留瑠比(アビル・ルビ)論説委員は、産経新聞の一面に再三登場して、歯に衣着せぬ論調で御自分の主張を展開していく記事はとても迫力がある。田北真樹子氏は元・産経新聞の記者で、現在は正論の編集長。「虎ノ門ニュース」などには頻繁に登場して弁舌爽やかに持論を展開する論客だ。

 テーマは、「安倍晋三の遺志を継げ 岸田政権への提言」という触れ込みだった。が、論評が始まると、ウクライナ戦争、アメリカの中間選挙と広い範囲に論議が展開して、とても見応え、聴き応えのある講演会になった。



11月1日(火)

 今年もカレンダーの2枚を残すだけ、5/6が過ぎ去ったのだ.。先月末、ソウルでは、ハロウィンの騒ぎで150人以上の人が押しつぶされるという不幸な出来事があった。今年も、年末には帰省や初詣旅行、海外旅行などで色んな騒ぎがありそうだ。

 午後は、在宅診療のNO.10。廣石先生た助手を連れてやってきた。最初に、採血とインフルエンザ予防接種があった。次回は、5回目のコロナワクチンをやるという。そういうのを自宅でやることが出来るのは随分助かる。注射の後は、何時もの通り、体温、血圧、血中酸素などを測定、簡単な触診と問診の後、すぐに帰られた。何時もは、出してあるペットボトルもお茶と菓子の類を持って帰られるのだが、助手がいると、それを目撃されると拙いのか、全く手を触れることなく帰られた。

 この時季になると、朝夕の空気が冷え込み、西の空に自然が織り成すアートがとても美しい。今日の夕焼けを紹介する。

           

10月31日(月)

 上海在住のKi氏が一時帰国したので、横浜のKa氏と3人で昼食会をもった。場所は、何時もの品川プリンスホテル38Fの「味街道五十三次・品川」。ただ、毎週、月曜日は午後2時~4時に掃除のヘルパーさんが来るので、2時までには家に帰らなければならない。ということで、11:30~13:30という変則的な時間設定となった。Ki氏には心臓疾患があり、日本の病院で心臓周辺の動脈にステント入れてから、そのアフターケアに定期的に一時帰国して外来診療を受ける必要がある。今回は、昔仲間に会って旧交を温める余裕もとっての帰国だったようだ。昔仲間のイトちゃんにも会いに行ったとのこと。イトちゃんには、”嗅覚過敏症”という持病があり、車の排気ガス、新建材の塗料、セメダインのような接着剤など、刺激臭のある臭いを嗅ぐと、苦しくて息が止まりそうになるという。宇部の郊外に家を建てて、長らくそこに暮らしていたのだが、何でもそんな環境でも、刺激臭があるとのことで、今年2月、一人で家を出て、伊豆の下田に貸別荘を借りて、そこに一人暮らししている。そこは、海岸に面した高台で、素晴しく空気の美味しいところだという。Ki氏は、その場所にイトちゃんを訪ねて旧交を温めてきたという。

 イトちゃんは、現役時代、私の右腕となって良く働いてくれた。下田なら車で行ける距離だ。是非、一度会いに行きたいと思っていたので、Ki氏の報告に補聴器のボリュームをあげて聴き入った。が、「中村さんには無理だと思う」と、Ki氏の意見。何でも、イトちゃんの住まいは坂の上の高台にあり、その急坂を歩いて登るのは無理だろう、という。車で登れないことはないが、アクセルを踏みながら登るとなれば、折角の美味しい空気の中に排気ガスの臭いが入って来るだろうという。私は、2年後の免許更新のタイミングで、運転免許証を返上することにしているので、それまでに、是非、下田に行って、イトちゃんに逢ってこようと思っていた。その計画がオジャンになりそうだ。

 昼食会は、昔話にも花が咲いて、1時半ギリギリでお開きとなったが、帰りの国道1号線は空いていたので2時までに帰り着くことが出来た。右の仏花 2022-W48は、妻の好きだったコスモスにした。逝く秋を惜しむように大きく花びらを拡げているところも可憐だ。



10月25日(火)

 朝から冷たい雨。今年は寒くなるのが早い。この分だと、富士山は雪だろうと想像した。午後から雨は止んで、空が明るくなって来た。暫くして、西の空をみると、富士山にはキレイにお化粧が出来上がっている。今冬の初冠雪だ。普通、初冠雪は朝早く西の空に青空を背景にした銀雪の富士が浮かび上がるのだが、今年は曇り空が背景だ。それでも、矢張り、富士山は真白に化粧した姿が美しい。写真を撮った後も、ベランダから暫く富士山を眺めていた。

 午後から、国会中継で、立憲民主党の野田佳彦元総理が、参院選の応援演説中に銃撃され、死去した安倍晋三元首相の追悼演説を行っていたので、聴いてみた。素晴しい追悼演説だった。2009年、民主党が政権を取った時、私は大いに民主党政権に期待していた。当時の民主党の中では野田佳彦さんが好きで、当然、最初の党首になるものと思っていたら、鳩山由紀夫氏が党首になった。全く信頼できない首相で、沖縄普天間基地の移設に関しても、種々、訳の分からない持論を展開し、辺野古移転に反対し、代案を訊かれると、「最低でも県外」と、沖縄県人に耳障りのよい発言をした。しかし、県外の候補地は見つからず、2009年5月末には、辺野古移設を明記した日米合意を結び、首相を辞任した。後日、記者団に自からの発言と矛盾することを質問され、「学べば学ぶほど抑止力の重要性が分かった」と、全く訳の分からない理由を述べた。鳩山首相の後任に選ばれた菅直人首相も鳩山氏に輪をかけた宇宙人で、信頼できる首相とはお世辞にも言えなかった。

 そして、菅首相の後任に登壇したのが、野田佳彦首相だった。野田さんは前任の2人とは違って、ロジックも整然としていて、信頼できる存在だったが、自民党の安倍党首に攻められてあっさり国会を解散してしまった。そして、その潔い決断には好感が持てた。その後の総選挙では自民党が圧勝し、安倍政権の再登場となった。そして、その後の国会で安倍新首相に代表質問に立ったのが野田佳彦氏であった。その時の質問を私はよく憶えている。

「安倍総理、憶えていらっしゃいますか。民主党の野田佳彦です」と切り出した、野田さんに対して答えた安倍総理の発言もよく覚えている。
「野田さんのことは勿論憶えています。民主党の中では、最も好感の持てる方です。私は、野田さんとなら、一度、二人でお酒を飲みたいと思っています。後のお二人とはそんなことは思わないですが…」

 今回の野田さんの追悼演説は、安倍さんが聴いていたら、前回の菅(スガ)前総理の演説よりも遙かに嬉しい演説だっただろうと推測せずにはおれないものがある。特に、最後の方で語った一節には泉下の安倍晋三さんは、快哉!を叫んだのではないだろうか。
「国を背負った経験を持つ者同士、天下国家を腹蔵なく論じ、立場の違いを乗り越え、一致点を見出せるのではないかとの期待を抱いていました。あなたの無念に思いを致せばこそ、私たちは言論の力を便りに、不完全かもしれない民主主義を、少しでも、よりよきものへと鍛え続けていくしかない、というのが私の決意です」


10月22日(土)

 神戸高校関東支部同窓会が昼に大手町のサンケイプラザ4Fの宴会場であるというので出かけた。11回生は橋田クンと私の2人がエントリーしていたが、橋田クンは10日前の多田周子東京後援会総会に休んでいた。この時は、熱中症で入院していた。昨日の情報では、未だ入院中ということだったので、11回生は私一人になった。昨日までどうやって行くかについて色々と考えた。サンケイプラザにはかなり大きな駐車場があるということで、車で行くことにしていたが、初めての所に行くのは相当リスクがありそうだ。結局、歩行カート持参で、コミュニティバス(タマちゃんバス)と電車で行くことにした。

 朝は少し早い目に起きて、ケンゾーに食事や薬を与え、自分の朝食は少し控えめにとり(同窓会で昼食がタップリ出るから)、予定通り10時35分発の多摩ちゃんバスに乗車すべくバス停に着いた。そして、多摩ちゃんバスでグルグルと町内を循環した後、武蔵新田駅で降り、東急多摩川線でで蒲田まで行き、蒲田から京浜東北線で東京に向かった。京浜東北線の優先席で一息ついて、忘れ物はなかったか、ポケットに手を入れてみてビックリ! 何と、財布を忘れてきたのだ。小銭とパスモはあるので、電車に乗るだけなら問題ないが、同窓会では、先ず、会費を払わなければならない。どうしようか?
時計を見ると、11時近い。11時45分までに会場に着かなければならない。家に財布を取りに帰っていては、絶対に間に合わない。咄嗟の判断で次の大森駅で電車を降り、タクシー乗り場に急いだ。少し待ってやってきたタクシーのトランクに歩行カートを入れてもらい、家に帰る道を説明した。車が走り出して、運転手に訊いてみた。
「ボク財布を忘れて家に帰るのだけど、家から直ぐに大手町のサンケイプラザに向かうと、何時ごろ着くかな」
「高速道路を使って霞が関まで行き、そこから一般道に入って行くと、早ければ12時半頃には着くと思いますが…」
「じゃあ、家に着いたら下で少し待って頂戴。大手町まで行ってもらうから」
「分かりました!」運転手が弾んだ声で答えた。
 
 家に入ると、書斎兼寝室の財布が置いてある所に直行、財布をポケットにねじ込んで、タクシーに引き返して大手町に向けて出発した。運転手に目的地の場所を書いた地図を渡し、私は後部座席で同窓会幹事の阿部氏に電話をかけた。
「11回生の中村です。途中まで出かけて、京浜東北の電車の中で財布を忘れたこと気が付きました。途中の駅で下車して、タクシーで自宅に財布をとりに帰り、今、そのタクシーでそのまま大手町に向かっています。30分ほどで着くと思われます。必ず参加しますので、宜しくお願いします」
「お疲れです。会は先ほど始まりましたが、お待ちしています。お気をつけてお出で下さい」の返事。

 約30分後、タクシーは大手町のサンケイプラザに到着。料金は高速料金を入れて、1万円と少しを請求された。1万円札と千円札を渡し、「お釣りは要らないよ。トランクのカートを出してくれる」というと、運転手はトランクから歩行カートを出して私の前に置くと、「有難うございます」と言って深々と頭を下げた。朝からいい客に恵まれたことが嬉しかったようだ。私は、財布を忘れたことに対して少々高額のペナルティを払うことになったが、自分の失敗だから仕方がない。4階までエレベータで上がると、阿部氏が待っていてくれて、会場に案内してくれた。受付で会費を払い、名札を貰った。その時、「武田玲子」と書かれた名札が残っているのが見えた。武田玲子さんは女医さんだが、11回生だけの集まりでも、エントリーだけしておきながら、当日は現れない”スッポカシ”の多い人だ。結局、11回生の出席は私一人だった。

 同窓会で同期の人が居ないと喋る相手もなく、昔話もできない。ということで、私は、後輩たちが運んでくれた食事と飲み物を頂戴しながら、講演会を聴くことにした。講師は36回生の一石英一郎(イッセキ・エイイチロウ)氏だ。医学者、科学者、内科医とある(→
こちら)。講話のタイトルは「健康と幸せをめざすミドルシニアライフ」 ―入浴、エクササイズ、回想法??― 」とある。健康と幸せの定義と「幸せを感じる時のホルモンや血液の状態を見える化」する研究を紹介するらしい。PDFによって、正面のスクリーンに自らの研究途中で作成した3つのホルモンの動きを見える化する資料を映しだした。主なスクリーンショットを下記に示す。

      
 
     

     

 一石氏は2018年に、TV番組「さんまのホンマでっか」に出演したとのことで、その時の録画を自らが解説しながらスクリーンで見せたので、とても面白かった。→
こちら

 公演が終わったところで、兵庫県の東京事務所長/今後元彦氏と神戸本部から来られた同窓会・広報の新美摩衣さんに簡単な挨拶をして、お先に失礼した。
  

10月18日(火)

 今日は、廣石先生の在宅診療NO.9があった。何時もの体温、血圧、血中酸素濃度等の測定に加えて、在宅診療では初めてのリューブリンの皮下注射があった。リューブリンは女性ホルモンで、前立腺がんの繁殖を抑えるための薬剤。今日のものは、6カ月効果が持続するもの。お腹の皮下脂肪の多い所に注射するのだが、昭和大学病院でやる注射ほどは痛くはなかった。

 右の花は仏花 2022-w47。秋のシンボルのリンドウに、スプレーカーネーションとガーベラを3輪加えてみた。9月も後半に入るとかなり秋めいてきて、朝夕は涼しい。夕方の西の空には茜色の雲が広がり、富士山の近くで沈みゆく太陽をみるのが楽しい。

     



11月15日(火)

 昼に、宇部興産[現在は(株)UB〕の役員OB会が3年振りにあり、出かけた。ビックリすることが 色々あったまず、会場が大手町の新しいビル(アーバンネット大手町ビル) 21Fの東京会館であったこと。従来は会社の直ぐ近くにある浜松町の貿易センタービルの「東京会館」だったが、貿易センタービルがが建て替え中 とかで、今年はこのビルで開いたとのこと。このビルでは、最初に 1Fにある東京会館の受付でICカードを貰わないと、エレベーターに乗れない。 エレベーターへのセキュリティ通路の入り口で、ICカードで電車の改札口を通るときの ように所定の場所にタッチしないと、エレベーターに行く通路が閉ざされるのだ。 話は少し飛ぶが、帰りに浜松町までタクシーで行って、貿易センタービルはどうなったのか、 見てみようと思ったが、どこにも見当たらずでビックリ!。 話は戻って、21Fの会場に入ったときも、秘書室の皆さんは知らない方ばかり。何時も 愛想よく迎えてくれたリコちゃんコト、佐藤理子さんの姿はなかった。

 本日の出席者は、OB27名、現役14名。OB27名の内7名は知らない方、 現役の14名は半分以上が知らない顔だった。 驚いたのは、イトチャンコト糸口氏が出席していたと。彼は“嗅覚過敏症”という奇病の持ち主で、 宇部の自分の家では耐えられない臭いがあるそうで、目下、伊豆の下田に貸別荘を借りて 一人で生活していて、その様子は、上海から一時帰国のKi氏から聞いたばかりだった。彼と会うのは久し振りなので、彼が左隣の席まで引っ越してきて随分話した。今日のテーブルは指定席だったが、左隣が誰だったか思い出せない。右隣りは、山本謙会長で、以前「ユズル君」と呼んでいたことも あり、久しぶりに旧交を温めた。 

 最初に、この3年間で亡くなった方々の「物故者リスト」がスクリーンに映され、1分間の黙祷を捧げた。全部で11人だが、1人を除いて全員が80代か、90代。唯一、喜多村尚也氏だけが、67歳の早逝であった。喜多村氏は開発銀行からの出向者で、宇部興産では私が事業部長をしていた環境事業部に引き受けたので、今日の出席者で喜多村氏のことを知っている人は殆ど居なかった思う。

 帰りに蒲田の「メガネ・ドラッグ」に立ち寄ったので、帰宅した時は、西の空に陽が沈むところだった。


11月12日(土)

 久し振りに、コンサートを聴きに行った。多田周子ライブやキエフ・クラシック・バレーの「白鳥の湖」などはあったが、本格的コンサートになると、8月7日の東京フィルと服部モネのメンコンまで遡る。今日は、「ミューザ川崎」の名曲全集第181回。演目はフランスもの。ラヴェルの「「ピアノ協奏曲ト短調」とベルリオーズの「幻想交響曲」。東京交響楽団で指揮は川瀬賢太郎。ピアノは三浦謙司だ。

 ベルリオーズの小曲:序曲「ローマの謝肉祭」に続いて、ラヴェルのピアノ協奏曲だ。ベルリオーズからサン=サーンス、ドビュツシーを経て、ラヴェル。フランス音楽の流れの中でラヴェルは新たな息吹をもたらす存在だった.。1929年、初演された「ボレロ」はラヴェルの代名詞になった。このピアノ協奏曲も同じ年に作曲に着手され、2年後に発表された。現代音楽のジャンルと重なる時代の作曲とあって、第1楽章では、ジャズ風の音階が随所に取り入れられている。

 ピアノの三浦謙司は初めて聴いたが、テクニック、表現とも危うげなく、信頼できるピアニストの印象が強く残った。解説によると、1993年、神戸の生まれとある。4歳の時、自らの意思でピアノを始め、13歳の時に英国の音楽分野の奨学金を取得、単独で英国に渡り、以降、欧州を中心にピアノを学ぶ。18歳でベルリン芸術大学に入るが、1年で中退。一旦、音楽の世界からから離れて帰国する。21歳の時、再びドイツに渡り、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学に入る。そして、26歳の時、 ロン・ティボー・クレスパン国際コンクールで優勝及び3つの特別賞を獲得、一躍、世界にその名を知られることとなる。 それまで、活躍の中心が欧州だったため、その名前すら私は知らなかったが、同郷のよしみでもあり、今後は三浦謙司を陰ながら応援したい。

 そして、本日の目玉、ベルリオーズの「幻想交響曲」だ。この曲は、ラジオなどで何度か聴いたことはあるが、生演奏は初めて。実際に生で聴いてみて、これほど激しい曲だとは思わなかった。特に、第4楽章の「断頭台への行進」では、無性に鳥肌が立った。オケの迫力に加えて、指揮者の川瀬賢太郎の大熱演が大迫力の演出に加担した。

 川瀬賢太郎は、2014年、私がサポーターをしている神奈川フィルに、 常任指揮者として入団して来た。当時は、まだ、30歳に なったばかりで、恐る恐るの指揮振りだったのを憶えている。 それが、3~4年前から他のオーケストラの指揮をするように なって、徐々に大胆な指揮振りになってきた。 そして、この日の大熱演。“炎のコバケン”(小林研一郎)にも 似た指揮振りであった。



11月5日(土)

 今日は、昼に、孫のナオ君が来ることになっているので、焼肉のランチを準備した。スーパー”OK”でA5等級の黒毛和牛カルビーを買ってきたが、どうもこの店のA5等級は表示に偽りがあるように思えてならない。値段が安いのでツイツイ買ってしまうが、スキヤキの黒毛和牛A5等級も、食べ較べをすると、東雪谷のアンデスで買って来る4等級の黒毛和牛に孫たちの軍配が上がるのだ。ナオ君が来るときには必ずやって来る淳子は今日は自宅待機。というのは、数日前から体調を崩し、PCR検査を受けてみると”陽性!”とのこと。今度のオミクロン型コロナウィルスは感染力が強いようだ。末娘の康子も1週間ほど前に会社で数人がコロナウィルスの感染したと聞いていたが、康子もPCR検査で陽性だった。暫く自宅療養で会社にはリモート出勤だったが、昨日辺りから職場復帰したとのこと。何でも、会社ではデザインコンペの案件をいくつか抱えていて、とても忙しいとのこと。

 午後、デジタルお助けマンのナオ君には下記の3点の仕事をお願いした。
・ずっと放ってあった、リモート会議用端末機”Mee Pet”の組み立て。
・これも暫く放ってあった、学友のM氏から送ってきたロシア語入力用のキーボードの接続。
・切断されていたY女とのLINE回線の復活。
 どれも、難なくこなしてくれて、ナオ君! "Thanks. You did good job !"

 夜は、以前、申し込んでおいた、【動画配信】産経新聞特別講演会 WEB配信が届いていて、配信がつながるのが今日までということで、ゆっくり講演会を聴くことにした。講師は、産経新聞の阿比留論説委員と雑誌”正論”の田北編集長だ。ともに、保守の論客なので、興味をもって拝聴した。阿比留瑠比(アビル・ルビ)論説委員は、産経新聞の一面に再三登場して、歯に衣着せぬ論調で御自分の主張を展開していく記事はとても迫力がある。田北真樹子氏は元・産経新聞の記者で、現在は正論の編集長。「虎ノ門ニュース」などには頻繁に登場して弁舌爽やかに持論を展開する論客だ。

 テーマは、「安倍晋三の遺志を継げ 岸田政権への提言」という触れ込みだった。が、論評が始まると、ウクライナ戦争、アメリカの中間選挙と広い範囲に論議が展開して、とても見応え、聴き応えのある講演会になった。



11月1日(火)

 今年もカレンダーの2枚を残すだけ、5/6が過ぎ去ったのだ.。先月末、ソウルでは、ハロウィンの騒ぎで150人以上の人が押しつぶされるという不幸な出来事があった。今年も、年末には帰省や初詣旅行、海外旅行などで色んな騒ぎがありそうだ。

 午後は、在宅診療のNO.10。廣石先生た助手を連れてやってきた。最初に、採血とインフルエンザ予防接種があった。次回は、5回目のコロナワクチンをやるという。そういうのを自宅でやることが出来るのは随分助かる。注射の後は、何時もの通り、体温、血圧、血中酸素などを測定、簡単な触診と問診の後、すぐに帰られた。何時もは、出してあるペットボトルもお茶と菓子の類を持って帰られるのだが、助手がいると、それを目撃されると拙いのか、全く手を触れることなく帰られた。

 この時季になると、朝夕の空気が冷え込み、西の空に自然が織り成すアートがとても美しい。今日の夕焼けを紹介する。

           

10月31日(月)

 上海在住のKi氏が一時帰国したので、横浜のKa氏と3人で昼食会をもった。場所は、何時もの品川プリンスホテル38Fの「味街道五十三次・品川」。ただ、毎週、月曜日は午後2時~4時に掃除のヘルパーさんが来るので、2時までには家に帰らなければならない。ということで、11:30~13:30という変則的な時間設定となった。Ki氏には心臓疾患があり、日本の病院で心臓周辺の動脈にステント入れてから、そのアフターケアに定期的に一時帰国して外来診療を受ける必要がある。今回は、昔仲間に会って旧交を温める余裕もとっての帰国だったようだ。昔仲間のイトちゃんにも会いに行ったとのこと。イトちゃんには、”嗅覚過敏症”という持病があり、車の排気ガス、新建材の塗料、セメダインのような接着剤など、刺激臭のある臭いを嗅ぐと、苦しくて息が止まりそうになるという。宇部の郊外に家を建てて、長らくそこに暮らしていたのだが、何でもそんな環境でも、刺激臭があるとのことで、今年2月、一人で家を出て、伊豆の下田に貸別荘を借りて、そこに一人暮らししている。そこは、海岸に面した高台で、素晴しく空気の美味しいところだという。Ki氏は、その場所にイトちゃんを訪ねて旧交を温めてきたという。

 イトちゃんは、現役時代、私の右腕となって良く働いてくれた。下田なら車で行ける距離だ。是非、一度会いに行きたいと思っていたので、Ki氏の報告に補聴器のボリュームをあげて聴き入った。が、「中村さんには無理だと思う」と、Ki氏の意見。何でも、イトちゃんの住まいは坂の上の高台にあり、その急坂を歩いて登るのは無理だろう、という。車で登れないことはないが、アクセルを踏みながら登るとなれば、折角の美味しい空気の中に排気ガスの臭いが入って来るだろうという。私は、2年後の免許更新のタイミングで、運転免許証を返上することにしているので、それまでに、是非、下田に行って、イトちゃんに逢ってこようと思っていた。その計画がオジャンになりそうだ。

 昼食会は、昔話にも花が咲いて、1時半ギリギリでお開きとなったが、帰りの国道1号線は空いていたので2時までに帰り着くことが出来た。右の仏花 2022-W48は、妻の好きだったコスモスにした。逝く秋を惜しむように大きく花びらを拡げているところも可憐だ。



10月25日(火)

 朝から冷たい雨。今年は寒くなるのが早い。この分だと、富士山は雪だろうと想像した。午後から雨は止んで、空が明るくなって来た。暫くして、西の空をみると、富士山にはキレイにお化粧が出来上がっている。今冬の初冠雪だ。普通、初冠雪は朝早く西の空に青空を背景にした銀雪の富士が浮かび上がるのだが、今年は曇り空が背景だ。それでも、矢張り、富士山は真白に化粧した姿が美しい。写真を撮った後も、ベランダから暫く富士山を眺めていた。

 午後から、国会中継で、立憲民主党の野田佳彦元総理が、参院選の応援演説中に銃撃され、死去した安倍晋三元首相の追悼演説を行っていたので、聴いてみた。素晴しい追悼演説だった。2009年、民主党が政権を取った時、私は大いに民主党政権に期待していた。当時の民主党の中では野田佳彦さんが好きで、当然、最初の党首になるものと思っていたら、鳩山由紀夫氏が党首になった。全く信頼できない首相で、沖縄普天間基地の移設に関しても、種々、訳の分からない持論を展開し、辺野古移転に反対し、代案を訊かれると、「最低でも県外」と、沖縄県人に耳障りのよい発言をした。しかし、県外の候補地は見つからず、2009年5月末には、辺野古移設を明記した日米合意を結び、首相を辞任した。後日、記者団に自からの発言と矛盾することを質問され、「学べば学ぶほど抑止力の重要性が分かった」と、全く訳の分からない理由を述べた。鳩山首相の後任に選ばれた菅直人首相も鳩山氏に輪をかけた宇宙人で、信頼できる首相とはお世辞にも言えなかった。

 そして、菅首相の後任に登壇したのが、野田佳彦首相だった。野田さんは前任の2人とは違って、ロジックも整然としていて、信頼できる存在だったが、自民党の安倍党首に攻められてあっさり国会を解散してしまった。そして、その潔い決断には好感が持てた。その後の総選挙では自民党が圧勝し、安倍政権の再登場となった。そして、その後の国会で安倍新首相に代表質問に立ったのが野田佳彦氏であった。その時の質問を私はよく憶えている。

「安倍総理、憶えていらっしゃいますか。民主党の野田佳彦です」と切り出した、野田さんに対して答えた安倍総理の発言もよく覚えている。
「野田さんのことは勿論憶えています。民主党の中では、最も好感の持てる方です。私は、野田さんとなら、一度、二人でお酒を飲みたいと思っています。後のお二人とはそんなことは思わないですが…」

 今回の野田さんの追悼演説は、安倍さんが聴いていたら、前回の菅(スガ)前総理の演説よりも遙かに嬉しい演説だっただろうと推測せずにはおれないものがある。特に、最後の方で語った一節には泉下の安倍晋三さんは、快哉!を叫んだのではないだろうか。
「国を背負った経験を持つ者同士、天下国家を腹蔵なく論じ、立場の違いを乗り越え、一致点を見出せるのではないかとの期待を抱いていました。あなたの無念に思いを致せばこそ、私たちは言論の力を便りに、不完全かもしれない民主主義を、少しでも、よりよきものへと鍛え続けていくしかない、というのが私の決意です」


10月22日(土)

 神戸高校関東支部同窓会が昼に大手町のサンケイプラザ4Fの宴会場であるというので出かけた。11回生は橋田クンと私の2人がエントリーしていたが、橋田クンは10日前の多田周子東京後援会総会に休んでいた。この時は、熱中症で入院していた。昨日の情報では、未だ入院中ということだったので、11回生は私一人になった。昨日までどうやって行くかについて色々と考えた。サンケイプラザにはかなり大きな駐車場があるということで、車で行くことにしていたが、初めての所に行くのは相当リスクがありそうだ。結局、歩行カート持参で、コミュニティバス(タマちゃんバス)と電車で行くことにした。

 朝は少し早い目に起きて、ケンゾーに食事や薬を与え、自分の朝食は少し控えめにとり(同窓会で昼食がタップリ出るから)、予定通り10時35分発の多摩ちゃんバスに乗車すべくバス停に着いた。そして、多摩ちゃんバスでグルグルと町内を循環した後、武蔵新田駅で降り、東急多摩川線でで蒲田まで行き、蒲田から京浜東北線で東京に向かった。京浜東北線の優先席で一息ついて、忘れ物はなかったか、ポケットに手を入れてみてビックリ! 何と、財布を忘れてきたのだ。小銭とパスモはあるので、電車に乗るだけなら問題ないが、同窓会では、先ず、会費を払わなければならない。どうしようか?
時計を見ると、11時近い。11時45分までに会場に着かなければならない。家に財布を取りに帰っていては、絶対に間に合わない。咄嗟の判断で次の大森駅で電車を降り、タクシー乗り場に急いだ。少し待ってやってきたタクシーのトランクに歩行カートを入れてもらい、家に帰る道を説明した。車が走り出して、運転手に訊いてみた。
「ボク財布を忘れて家に帰るのだけど、家から直ぐに大手町のサンケイプラザに向かうと、何時ごろ着くかな」
「高速道路を使って霞が関まで行き、そこから一般道に入って行くと、早ければ12時半頃には着くと思いますが…」
「じゃあ、家に着いたら下で少し待って頂戴。大手町まで行ってもらうから」
「分かりました!」運転手が弾んだ声で答えた。
 
 家に入ると、書斎兼寝室の財布が置いてある所に直行、財布をポケットにねじ込んで、タクシーに引き返して大手町に向けて出発した。運転手に目的地の場所を書いた地図を渡し、私は後部座席で同窓会幹事の阿部氏に電話をかけた。
「11回生の中村です。途中まで出かけて、京浜東北の電車の中で財布を忘れたこと気が付きました。途中の駅で下車して、タクシーで自宅に財布をとりに帰り、今、そのタクシーでそのまま大手町に向かっています。30分ほどで着くと思われます。必ず参加しますので、宜しくお願いします」
「お疲れです。会は先ほど始まりましたが、お待ちしています。お気をつけてお出で下さい」の返事。

 約30分後、タクシーは大手町のサンケイプラザに到着。料金は高速料金を入れて、1万円と少しを請求された。1万円札と千円札を渡し、「お釣りは要らないよ。トランクのカートを出してくれる」というと、運転手はトランクから歩行カートを出して私の前に置くと、「有難うございます」と言って深々と頭を下げた。朝からいい客に恵まれたことが嬉しかったようだ。私は、財布を忘れたことに対して少々高額のペナルティを払うことになったが、自分の失敗だから仕方がない。4階までエレベータで上がると、阿部氏が待っていてくれて、会場に案内してくれた。受付で会費を払い、名札を貰った。その時、「武田玲子」と書かれた名札が残っているのが見えた。武田玲子さんは女医さんだが、11回生だけの集まりでも、エントリーだけしておきながら、当日は現れない”スッポカシ”の多い人だ。結局、11回生の出席は私一人だった。

 同窓会で同期の人が居ないと喋る相手もなく、昔話もできない。ということで、私は、後輩たちが運んでくれた食事と飲み物を頂戴しながら、講演会を聴くことにした。講師は36回生の一石英一郎(イッセキ・エイイチロウ)氏だ。医学者、科学者、内科医とある(→
こちら)。講話のタイトルは「健康と幸せをめざすミドルシニアライフ」 ―入浴、エクササイズ、回想法??― 」とある。健康と幸せの定義と「幸せを感じる時のホルモンや血液の状態を見える化」する研究を紹介するらしい。PDFによって、正面のスクリーンに自らの研究途中で作成した3つのホルモンの動きを見える化する資料を映しだした。主なスクリーンショットを下記に示す。

      
 
     

     

 一石氏は2018年に、TV番組「さんまのホンマでっか」に出演したとのことで、その時の録画を自らが解説しながらスクリーンで見せたので、とても面白かった。→
こちら

 公演が終わったところで、兵庫県の東京事務所長/今後元彦氏と神戸本部から来られた同窓会・広報の新美摩衣さんに簡単な挨拶をして、お先に失礼した。
  

10月18日(火)

 今日は、廣石先生の在宅診療NO.9があった。何時もの体温、血圧、血中酸素濃度等の測定に加えて、在宅診療では初めてのリューブリンの皮下注射があった。リューブリンは女性ホルモンで、前立腺がんの繁殖を抑えるための薬剤。今日のものは、6カ月効果が持続するもの。お腹の皮下脂肪の多い所に注射するのだが、昭和大学病院でやる注射ほどは痛くはなかった。

 右の花は仏花 2022-w47。秋のシンボルのリンドウに、スプレーカーネーションとガーベラを3輪加えてみた。9月も後半に入るとかなり秋めいてきて、朝夕は涼しい。夕方の西の空には茜色の雲が広がり、富士山の近くで沈みゆく太陽をみるのが楽しい。

     


10月13日(木)

 マンションの大規模修繕も終局に入ったようで、今日は我が家の玄関ドアを新しいものに取り替える日だ。玄関ドアを取り外すわけだから、玄関は開けっ放しになる。終日、誰かが在宅する必要がある。というわけで、当然ながら体操教室はお休みをとる。

 朝から工事の大きな音に悩まされた。玄関ドアは型枠を壁に嵌め込み、その型枠にドアを取り付ける構造になっている。つまり、ドアを取り替えるということは、先ず、古い型枠を取り外す必要がある。型枠を新しいものに取り換えて耐震性をアップさせることは今回のドア交換の重要な目標なのだ。だから、工事の始まりは古い型枠の撤去だ。コンクリートに埋め込まれた型枠を撤去するのだから、既存のコンクリートの壁を壊す必要がある。鋭いドリルの連続音、ハンマーでコンクリートを割っているのだろうか、壁の崩れる大音響が響き渡る。ケンゾーが驚いて鳥篭の中を飛び回る。玄関とは反対側の多摩川に面したバルコニーは騒音はあまり聞こえない。日当たりもいいので、ケンゾーは鳥篭ごとバルコニーのテーブルの上に移動した。日光浴を兼ねた騒音避難だ。

 夜、6時過ぎ、ドアの交換が終了、養生のため辺り一面に張り巡らされていたビニールシートの壁もすべて取り外されてスッキリした(右写真。外から見たところ)。そして、鍵の開け閉めについても教えてもらった。今度のドアのロックは、電子ロック。ノンタッチキーをかざすだけでガチャと音がして、ロックが閉まり、ロックが開く。開け方をよく覚えていないと、ホテルの部屋の自動ロックに締め出されたような状況になるだろう。ホテルならフロントに話せば開けてくれるが、マンションの場合は管理人も合鍵は所持しない。気をつけないと…。



10月12日(水)
  

 今日は、「多田周子東京後援会」の総会が、プレスセンタービルの9階であった。約20名が出席した。先ず、ケータリングの昼食を頂戴して小休止の後、藤田会長(左の写真、左から3番目)の開会の辞でスタート。次に本日の主役・多田周子さん(左から4番目)が立ち上がって、最近の活動報告と出席者への謝辞を述べた。次に、右端の方が立ち上がって挨拶した。よく見るとこの方は、NHK元会長の海老沢勝二さんだ。ビックリ!これまで、総会に顔を出したことなどなかったが、出席の事前連絡もなく、フラリと見えたらしい。

 その次は、本来なら、後援会専務理事の橋田氏が挨拶するはずだが、本日は病気欠席。で、突然、私に回ってきた。チョット驚いたが、今年4月末、多田周子さんを三鷹の”三木露風霊園”に案内したことを話した。墓石の前で唄って貰った”赤トンボ”は素晴しかった。今度は、また何時か、千葉県にある”月の砂漠記念館”(→
こちら)に連れ出して、そこで”月の砂漠”を唄ってもらいたいと、結んだ。

 多田周子さんが活動拠点を兵庫から東京に移して10年余り過ぎた。この東京後援会の役員たちも高齢化してきた。先ほど挨拶した海老沢は88歳、本日病欠の橋田氏は私の神戸高校での同級生だから82歳、右の写真で私の左、古河市から来られた森川さんは90歳。早く、多田周子さんをスターダムに押し上げないと、売れない歌手で終わってしまう…



10月8日(土)

 昨日は、午後から豪雨になった。車のワイパーを最大にしても窓ガラスに吹付ける雨粒を払うことが出来ないほど強い雨だった。夕方、今月の薬を届けてくれた糀谷薬局のGさんも車を停めた道路から私の住む3号棟3階段まで歩いただけで全身ビッショリで、上に上がるのを断念、玄関で私に薬を渡すと、逃げるように帰って行った。夜には、淳子が来ることになっていたが、最寄り駅から歩くのは無理なので駅まで車で迎えに行った。

 それに引き換え、今日はからりと晴れた秋日和。夕方も、久し振りに夕焼けに映える富士山のシルエットが美しかった。

                            


10月5日(水)

 昨4日は、廣石先生の在宅診療 NO.8があった。何時ものように、カバーのの開いたままのノートPCを片手に下げて入ってこられ、私の対面の席に座ると、体温、血圧、血中酸素濃度、脈拍等を測定、更に、立ち上がって私の傍に来て、聴診器による触診、問診を効率よく終えテーブルの上のお茶のペットボトルとお菓子をカバンに詰めて、開いたままのPCを片手にもっ帰られた。

 今日10月5日は、亡き母の誕生日。存命なら、109歳になる。今朝、新聞を読んでいると、同じ誕生日で今年58歳になる話題の人が居ることを知った。横田めぐみさんだ。横田めぐみさんのことが日本中に知れ渡ったのは、2002年に、当時の小泉純一郎首相と安倍晋三官房副長官が北朝鮮を訪問して、5人の日本人拉致被害者を連れ戻してからのことだ。母が他界したの1999年11月だから、母は横田めぐみさんのことは全く知らないはずだ。自分と同じ誕生日で、50歳以上も若い話題の人が居ることを母に教えてあげたい気がするが、仏壇の母に話しただけでは伝わらないだろう。久し振りに母に手紙を書こうかと思い立った。偶々、今月第4木曜日の27日に予定されている「四季の会」(物書き同人の会)の課題作品のテーマが「手紙」だ。面白いエッセイが出来るかもしれない。上手く書ければ、このブログでも紹介したい。

 写真左は、仏花(2022-w45)。秋を代表する和菊とリンドウで季節感を出そうと思った。右の仏花(2022-w46)は、黄、赤、紫の3色を強調するために、フラッシュで色彩だけを強調した。紫は国旗に使われない色と言われるが、赤、黄、紫を下地に使ったのは、スペイン第2共和国の国旗だ。

                 



10月2日(日)

 快晴の1日となり、「スポーツの秋」を実感できた。少年野球の大会が多摩川グラウンドで開催されるのだろう。今朝は、我が家の下のグラウンドでは入場式があった。川面では、カヤックの練習が本格的だ。そして、対岸の川崎のグラウンドではサッカーが始まったようだ。夕月は、夏には観られなかった弱々しいサンセット。いよいよ秋だなぁー。中の写真、よーく見ると、薄ぼんやり富士山のシルエットが…(見えるかな?) 
    


10月1日(土)

 今年も残るところ1/4になった。今日が、平均寿命を通り越して、オマケの人生に入る第1日目となる。午前中は、懸案だったケンゾーを動物病院での診察に連れて行った。前回の下丸子の動物病院はパス、近くに出来た「丸子未来動物病院」だ。土曜日は9時~というので、ケンゾーを竹の篭に入れ、淳子と車で家を出た。ところで、先月27日の多田周子ライブに同伴するはずのO女が、転倒して足を骨折し入院したと書いたが、その直後にO女とは関係のない、次女の淳子も脚立から落ちて足の指(右足第3指))を骨折。入院の必要はなく、骨折部をシーネ(Schiene:「副木」、ドイツ語)で固定しておけば、日常生活には大きな支障はない。ただ、激しい運動はできない。そこで、車を近くの駐車場に停め、私も一緒に動物病院の入り口まで歩いて、鳥篭を淳子に預けて、私は駐車場で待機した。

 病院の様子は、適宜、淳子からラインで連絡あった。それによると、病院には3人の医師が居て、院長の金川先生が小鳥の担当だとのこと。そこで、今日は金川院長の診察で、検査もレントゲン写真も撮った。 そして、先生の診断では、人間でいうところの”骨粗しょう症”の症状がある。また、蓄卵材症(卵秘のこと)かもしれないとも。栄養剤、抗生剤、ビタミン剤などの薬を貰った。右の写真は淳子が送ってきた「診察ちゅうの院長」。休日診療なのでラフな服装だ。

 午後からは、鶴見に居る孫の直クンを呼んで、一日遅れの誕生パーティーだ。そろそろ秋なので、スキヤキ・パーティだ。世田谷に住む四女康子もジョインするはずだったが、体調不良でお休み。3人とは、こじんまりしたスキヤキ会になった。

     


9月30日(金)

 今日は、私の82回目の誕生日。2020年の統計では、1940年生れの日本人男性の平均寿命は 81.64歳とある。昔やったゴルフで、私のナイスショットが前の人の打ったドライバーショットをオーバードライブして先にいくと、内心、心地よく感じるが、自分の年齢が同世代の男性の平均寿命をオーバードライブすると、心地よいどころか、何となく肩身の狭い思いをする。若い頃、自分が80歳を過ぎても未だこの世に存在しているなどと想像したこともなかった。はるばる遠くまで来たものだという感慨とともに、この先どこまで行くのだろうか、と不安を感じる。その裏には、74歳で他界した私の父親の晩年が脳裏に焼き付いているからだろうか。

 父は60の後半頃から、徘徊や奇行といった認知症の症状が顕著だった。医師には”アルツハイマー型認知症”と診断されていた。母と相談して、御近所に迷惑がかかるといけないので、大阪の茨木市にある「藍野花園病院」という認知症専門病院に入院させた。その後、私は海外駐在の辞令が出て、6年ほどドイツに駐在した。帰任して一番に父を病院に見舞いに行った。ヘルパーさんに付き添われて面会室に入ってきた父は、私をみると相好を崩して言った。
「オー、キミは○○くんだったよな」
会社時代、自分の部下だった人と間違っているのだ。
「違いますよ。これは、あんたの一人息子の龍介ですよ!」同行した母が語気を強めて訂正しようとした。
「リュースケ?知らんなぁ」と父が答える。この時の絶望感は、40年近く経った今もハッキリと憶えている。
父のDNAを受け継いでいる私が、この先、父のようにならないという保証はない。そのことが大きな不安なのだ。

 左は仏花 2022-W43。夏の名残りが残る暑さを表現するのにヒマワリを主役に鶏頭を添えてみた。下は、各社から送られてきた Happy Birthday のカード。左から、ANA、プリンスホテル、日比谷花壇。

     



9月27日(火)

 忙しい1日となった。先ず、今日は安倍元首相の国葬の日。気持ちは武道館に行きたかったが、他の予定もあるので、取り敢えず、TVの中継を観た。結果的には、こちらの方が正解で、葬儀委員長の岸田首相をはじめ、色々な人から弔辞が述べられた。この中では、友人代表で登壇した菅元官房長官のものが素晴しかった。非常に真心が籠ってい上に、彼の経験から取って置きの話をした。それは、菅氏が衆議院会館の安倍事務所を訪れた時、安倍さんは不在だったが、机の上に安倍さんが読みかけの、政治学者・岡義武の著書「山県有朋」があり、ペンで線が引いてあったことを紹介した。

 それは、山県が同じ長州藩出身で、ともに首相を務めた年下の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌の部分だった。
「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」
 菅氏は「この歌くらい私自身の思いをよく詠んだ一首はありません」と、訴えた。安倍氏が線を引いた山県有朋の言葉が、年下の安倍氏に仕え、後継首相に就いた自身と重なったのだろう。菅氏がたまたま訪ねた安倍事務所で山県の歌に出会ったのは、不思議な縁だといえる。

 その後、菅氏が弔辞の中で、国葬会場の周りには20代、30代の若者らが見送りに来ていると言及した場面では、喪主の安倍昭恵夫人がハンカチを目に当てていた。安倍氏がまいた種、志は若い世代に受け継がれている。不人気だった山県の国葬は閑散としていたそうだが、安倍氏への献花には万単位の人が長蛇の列を作った。国葬を実施してよかった。(以上、産経新聞阿比留瑠比論説委員兼政治部編集委員の寄稿より抜粋)

 TV中継が終わって、家を出た。今日は、渋谷のセルリアンタワーにある東急ホテルのライブ場・「J.G. Brat」で、多田周子ライブがあるので出かけた。多田周子さんがこの会場でライブをやるのは3度目だ。前2回は、同じ「多田周子東京後援会」の理事をしているO女と同伴だったので今回もO女と同伴の予定でチケットを予約していた。が、直前になってO女が買物途中に転倒して足を骨折、入院してしまった。既に、席は二人分予約してあるので、空席が出来ては拙い。誰かピンチヒッターを捜さなければいけない。そこで、思いついたのが3女麻子のこと。3年前の9月26日(今日とは1日違い)に、麻子のリクエストで、当時赤坂のライブハウスであった多田周子のライブに連れていった。麻子は、大学を卒業して直ぐ、日商岩井に就職したので、赤坂の一ツ木通りが懐かしかったこともあるのだろう。会場では、O女も来ていて、自撮りで3人の写真を撮った(右の写真)。麻子は、この時、O女の知己を得たので、ピンチヒッター要員が麻子だと連絡すると、O女も二つ返事で賛同した。

 が、問題は待ち合わせの場所にあった。セルリアンタワーは、麻子も初めてのところなので、渋谷駅で待ち合わせすることにした。ミーティングポイントを「東口タクシー乗り場」と決めて出かけた。これが甘かった。結論から言えば、2人とも方向音痴になってしまったのだ。麻子は仕事の帰りに行くから6時ごろになるかもしれないと聞いていたので、私は早めに渋谷駅に着き、東口タクシー乗り場を捜すことにしていた。ところが、東口近辺をウロウロしている私のスマホにラインに麻子からのメッセージが来た。「今、東口タクシー乗り場に着きました」とある。時間は5時40分だった。私は焦った。駅の案内では東口は「B-7」出口とあったので、B-7出口を目指して急いだ。が、タクシー乗り場の標識は一向に出てこない。その内に、案じていた息が上がり始めたので、近くのベンチに腰を下ろそうにも、たくさんの人出で空いているベンチなんぞ見つからない。お互い、ラインで「何が見える」といった情報を交換するのだが、一向に相手の居場所が分からない。その内に、J.G. Bratの開場時間の6時を過ぎてしまった。このままだと、開演にも間に合わなくなるかもしれない。焦りながら周囲を眺めてみると、道路にタクシーの空車が居ることが判った。そこで、ラインで「渋谷駅で合流することは諦めて、別々にタクシーでセルリアンタワー東急ホテルに行ってホテルで合流しよう」と提案した。麻子も賛同したので目の前にやってきた空車を停めて、セルリアンタワーに急いだ。5分後にはホテルに着き、2階に上って、J.G. Brad の受付で、もう直ぐ、連れが来るから来たら席まで案内してほしいと頼んで、私の席に案内して貰った。東京のライブハウスは、大体、同じやり方で、開演の1時間前に開場があり、1時間の間に食事を注文して食べてもらう。ゆっくり食事が終わった頃に開演となるというシステムだが、J.Z. Brad も同じシステムだ。私は先に食事を採ることにして、自分の分を注文した。6時半頃に麻子がやってきた。何でもタクシーが捕まらず、歩いいて来たとか。タクシー乗り場に先に着いた麻子は空車が捕まらず、タクシー乗り場に行けなかった私は直ぐに空車を見つけたのは皮肉な話だが、6時半に2人とも会場に到着したのだから上出来だ。7時までに何とか食事を終えることが出来て、周子さんのライブが始まった。内容は、童謡が3曲、自分のオリジナルが7~8曲、それにカバー曲とカッチーニの「アヴェ・マリア」などポピュラーな名曲を5曲ほど、ウィットに富むトークと合わせて2時間近く唄い、語って、9時過ぎにライブを終えた。

       



9月24日(土)

 アッという間にもう週末。今週あったことを簡単にまとめておきたい。20日の火曜日は、午後から在宅診療のNO.7があった。前回はピンチヒッターの女医さんだったが、今回は本来の廣石先生だ。廣石先生はやることがとても素早い。約束の午後3時過ぎにやってこられた。玄関を開けると、先生は右手にカバーを開けたままのノートPCをぶら下げて入ってこられて、先ず、リビングのテーブルの上に開いたままのPCを置いて、時候の挨拶もそこそこに問診に入る。その後、代わったことはないかを尋ねて私の答えを聞きながら、PCに入力している。その後、体温、血中酸素濃度、血圧などを測定し、測定値をPCに入力する。最後に、聴診器で触診してお終いとなる。

 廣石先生は、1日10軒近くのお宅を回って在宅診療されるようだ。私の所のように5分で終わるところもあれば、診察に時間を取られる寝たきりの患者もいる。だから、早く診察を終えても世間話などに費やす時間はなく、「これ、頂戴します」と言いながら、テーブルに出ているペットボトルのお茶とお茶菓子を素早くカバンに詰め、片手には開いたままのPCをぶら下げて、そそくさと帰って行かれた。下には運転手付きの医院の車が待っているのだろう。リビングの片付けものをしながら、想像していた。今頃は車の後部座席に腰を沈め、PC画面を見ながら、私の所から持ち帰った茶菓子(伊豆土産に淳子が呉れた「ハチミツ入りミニバウム)を頬張って、冷たいペットボトルのお茶を飲んでおられるのだろうと…。

 21日の水曜日は、モルガンスタンレー証券の笠井氏、日色氏の二人が来訪。資産運用を一任している”グランゴール(Gran Goal)”という次世代型ラップサービスを説明に来たのだ。が、彼らセールスマンからすると、今年82歳の私だけに話すのでは何となく頼りないのだろう。何時、認知症が現れるか分らないからだ。それで、後継者としての淳子の同席を希望するので、淳子が同席できる時間のアポイントを取ってやってくる。今日も淳子が会社を抜けて来てくれた。彼らが私のことを認知症候補者と見なすのも無理はない。8月24日のブログで紹介したエッセイで書いたように、自分でもそれを自覚しているくらいだから。

 22日の木曜日は体操教室はお休みだった。が、6時半から横浜「みなとみらい」のオーシャン・ゲートビルである「四季の会」には出席した。午後、家を出るまでに、一度、ケンゾーを放鳥してやった。先般から飛べなくなっているので、少しでも飛ぶ練習をさせたいと、暫く、リビングの椅子の上に置いたり、手の平に載せたりしてみたが、矢張り、以前のように手から手に飛び移ることも、少し距離を離すと出来ない。一度、動物病院に連れて行こうと思う。

         


9月19日(月・老人の日)

 本来なら今朝は新横浜駅 8:00発の「のぞみ81号」に乗って神戸に向かっている筈だった。9月6日のブログに少し書いたように、母方の親戚で、一昨年の1月に急逝した従兄・高徳芳忠氏の納骨式が神戸の鵯越(ヒヨドリゴエ)霊園で行われるということで、私は出席の返事を出していたのだ。ところが、過去になかったような最大の台風14号が九州に上陸してから近畿地方に向かうというので、急遽、納骨式は中止になった。毎週月曜日に来る掃除のオバサン(正確には、身体介護ではなく、生活援助のヘルパーさん)には、今日は不在のため「お休み」にしてもらうことになっていたので、やってこない。そこで、ヘルパーさんのやるべき仕事を自分でやることにした。

 先ずは洗濯。洗濯機にたまっている1週間分の洗濯をして部屋干しにする。次に掃除だが、これは省略することにして、衣服の片づけをやることにした。先日、納骨式に着ていく略式礼服を選ぶのに、以前葬儀の時などに着ていた上着とズボンを試着してみた。心配していたのだが、5~6着の上下を試してみたが、どれも身体にフィットするものがない。冬物なら2年前の芳忠従兄の葬儀に着用したものがあるのだが、夏用となると大昔のものしかない。当時、私の体型はメタボの典型だったらしく、ウェストが1m近いズボンが大半だ。体重も70kgに近かったと記憶する。が、今はそれに較べると激やせ、体重は50kgに届くか届かない程度でウェストも80前後なのだ。だから、殆どのズボンはブカブカで身体に合わない。身長もかなり縮んでいるようで、長すぎるズボンが大半だった。今日、一日がかりで、何とか着用できそうなものと、次回メタボが復活した時のために置いておくものとを何とか仕分けすることができた。

 右の仏花(2022w-40)は。クルクマを主役にスプレイマムと小菊を添えてみた。クルクマはウコンの仲間。原産地は熱帯アジア、アフリカ、オーストラリアなど。暑さには強いので、残暑の残る今頃にも花もちがいい。左の2022-w42は、LAリリーと小菊。LAはロスアンゼルスとは関係なく、ロンギフローラム(てっぽう百合系統)とアジアンティック(アジア的)の頭文字を取った合成語のことらしい。




9月10日(土)

 3月から始まったマンションの大規模修繕が、約半年経って、そろそろ終盤を迎えるようだ。目ざわりだった足場も、一部の箇所を除くと、殆どが取り外された。多摩川に面したバルコニーに出ると、南西方向に180度視界が拡がるのが嬉しい。バルコン―の改修も終わり、フローリングもキレイになったので、そろそろ、住人の方もバルコニーにあったものを元の通りに戻さなければならない。が、悲しいかな、肺の弱者で、力仕事も苦手な80翁としては、自分で出来ることは何もない。近くに住む次女の淳子と川向こうの川崎に越してきた孫の直クンの若者たちに助けてもらうしかない。

 今日はそのスタートの日。昼前に、2人に来て貰って、出前の鮨桶と、昨夜の夕食用に買ったものから残しておいた黒毛和牛の炒め物と大根と油揚げの味噌汁を作って3人で食べた。私のできることはそこまで。後は、2人の若者(娘の方は50過ぎのオバサンだが)に頑張ってもらった。お蔭で、バルコニーに戻す、大物の鉢植えなどを置くベンチとキャンプ用のテーブル椅子を元の所にセットして貰った。しかも、植木鉢の類は土と埃にまみれて汚いままだったが、風呂場でキレイに洗って貰った。若者たちよ、有難う。

          


 夕方、ナオ君を蒲田駅まで送り、淳子も帰ってしまうと、後は、独居老人と飛べなくなった小鳥が一羽。今日の野球は、DeNAとのデーゲームで、一応、録画してあるが、途中経過をチラチラ観たところではタイガースのボロ負け。録画を観る気もしない。簡単な夕食をとり、後は、今年の中秋の名月を撮ったが、小さなデジカメでは大した「中秋の名月」にはならなかった。夕方の西の空と一緒に紹介する。

    


9月9日(金)

 時候が良くなってくると、川面には色々な舟が現れる。今日は5人が乗ったレース用の艇が、練習というより、多摩川観光でも楽しんでいるのか、ゆっくりと上流に向かって川面を滑っていた。

    


 午後から糀谷薬局の後藤さんが来訪。先日、在宅診療NO.6で岡田先生が来訪して診断があった。それに基づいて薬局宛に処方箋んを発行、その処方箋を受けた糀谷薬局がその薬を届けてくれるのだ。薬剤の説明はすぐに終わり、後藤さんのリクエストもあって、ケンゾーを放鳥してやった。
 ところが、最近、あまり外に出さないからか、飛ぶ力が極端に弱くなっている。手から手に渡るジャンプも出来ないので、一度、部屋の中を飛ばそうと、高く放り投げてみた。すると、羽を拡げることを忘れてしまったのか、羽を閉じたまま落下して床の上にドスンと落ちてしまった。何処かが弱っているのだろうか。チョット心配だ。

【訃報】 加来 利昭 氏

 予てから、山口医大病院で手術、入退院を繰り返して脳腫瘍と闘病していたが、昨日、退院の予定が退院できないまま病院で死去された(情報源:立野氏からの電話)。我々昭和41年に宇部興産に入社した新入社員は全部で120名を超えていたが、その中で特に親しく、結婚後も家族ぐるみで付き合っていた仲間は精々10人ほどしかいないが、その親しいメンバーが段々少なくなっていく。最初は岡田英明氏、次に古谷摂氏、そして昨年は網谷鴻介氏、そして、今回は加来利昭氏。仲間の中では最年長の私を置いて次々に亡くなっていく。もの凄く淋しい。
 明日がお通夜、明後日が告別式とのこと。会場は「宇部典礼会館」。典礼会館は本部は東京にあり、全国に典礼会館を展開していて、供花やお悔やみ文の手渡しまで手配してくれる。私は、葬儀への参列は無理なので、供花とお悔やみ文を典礼会館に頼んだ。そして、お悔やみ文の最後には、故人に対して、「いずれ、私もそちらに行くから、そちらで私の妻も加えて皆で集まりましょう。」と書いた。
加来さん、ゆっくり休んでください。心から御冥福を祈ります。


9月6日(火)

 午前中、JR蒲田駅の「みどりの窓口」に新幹線の切符を買いに出かけた。先般他界した、母方の従兄・高徳芳忠氏の納骨式を「19日の老人の日に、神戸の鵯越(ヒヨドリゴエ)霊園で挙行するので来てほしい」とのメールが芳忠氏の長男・真人(まこと)クンから来たのだ。これまで、父方の中村家代々の墓(京都寺町の天寧寺にある)には何度か墓参の機会があったが、母方の高徳家の墓には行くチャンスがなかった(母は、「夢野のお墓と呼んでいた」」)。というのも、些か複雑な事情があるのだ。母の家系はお寺の出で、母の父(私の祖父))は「高徳純教」といい、姫路の「門徒寺」という浄土真宗のお寺の出と聞く。ところが、兄弟たちは、皆、住職になったにもかかわらず、一人だけ上京、早稲田大学に入学し、挙句の果ては東京外国語大学の中国語学科を卒業した。この辺りは、高徳芳忠氏の「私の履歴書」(→ こちら)から借用した。

 高徳純教氏は直木家から千代を嫁に貰い、一男一女をもうけた。高徳忠夫と康(ミチ)である。そのミチが私の母に当たる。私の伯父に当たる高徳忠夫氏は、ヴァイオリンが趣味で、私が物心ついたころにはよくヴァイオリンを弾いていた。そして、後に私に3/4のスズキのヴァイオリンを買ってくれた。小学校5年のころ、この伯父さんにヴァイオリンの手ほどきを受けたこともある。が、当時、私の関心事はヴァイオリンなどではなく、ミニアチュアの電気機関車で、忠夫伯父さんも電気機関車にはまり、ヴァイオリンそっちのけで電気機関車に熱中した記憶がある。

 その忠夫伯父さんは経緯は知らないが、当時から敬虔なクリスチャンだった。後に、祖母の千代さんが亡くなったときも、葬儀は仏式で挙げたものの、自分の家には仏壇がなく、位牌は我が家の仏壇に入っていたと記憶する。その後、忠夫氏は自分が亡くなった時のことを考えて、高徳純教氏の眠るお墓をキリスト教のお墓に変えてしまったと聞く。芳忠氏も忠夫氏の影響を受けてクリスチャンの洗礼を受けた。過日の葬儀も鎌ヶ谷教会で行われた。今度の納骨式にも牧師さんが立ち会うとのこと。私は、これまで身内の方のお墓でキリスト教式というのを知らないから、是非とも観ておきたかったので、出席の返事を出した。

 午後、在宅診療NO.6があった。今日は廣石先生が来られないということで、代理の女医さんが来られた。名前を岡田泰江という。これは、後刻、薬局の後藤さんから教えてもらった。

 岡田先生も、廣石先生と同じく、体温、血圧、血中酸素濃度を測定した後、足のむくみをチェック、聴診器で胸と背中の触診と問診があった。特に問題となるところはなかった。

 右の仏花「2022-w37」は、秋の気配を演出するリンドウと和菊を中心に千日紅を添えてみた・。これもフラッシュを点けたので、全体がハレーションを起こしてしまった。また、左の仏花「2022-w38」は、エゾアスターに和菊をメインにソリダコを添えてみたが、こちらもフラッシュでハレーションを起こしてしまった。今度からは、窓からの光だけで撮らないといけない。




9月1日(木)

 今日から9月。今年も2/3が過ぎてしまった。9月に入ったばかりだが、今日1日は「体操教室」の日。先般、娘たちからプレゼントして貰ったTシャツを体操教室で皆さんにお披露目しなければならない。黒地のシャツの胸に大きく白の文鳥が描かれ、イラストの部分を拡大すると、我が家のペット・ケンゾー君そのものだ。尤も、白の文鳥はどれも同じ顔をしていて、今、ケンゾーを他の白い白鳥3羽の中に入れたら、その中からケンゾーを見つけるのは至難だろう。このTシャツ茂ちゃん先生にも生徒の熟女たちにもなかなか好評だった。


                  

 それと、今一つ。茂ちゃん先生は先日(8月23日に)観てきた、キエフクラシックバレエの「白鳥の湖」の説明をするのに一生懸命。自分でポーズを作っては、「中村さん、こうだよね」と私に相槌を強要する。「こういうことになるんじゃないかと思ったよ」と、返事代わりに呟くと、熟女たちはドッと笑った。


8月31日(水)

 明日から9月に入るからというわけではないだろうが、今日は朝から真夏の名残りだろうか、猛暑だ。だが、先般、大規模修繕のための足場が取り外されて、バルコニーからの景色は以前の眺望が回復した。今朝は、川面にモーターボートに引いて貰って、水上スキーが出ていた。これまでも、時々、出ていたのだろうが、足場があれば良く見えないし、写真を撮ることもできなかった。今日の水上スキーは少し写真を撮ってみたので、その中の1枚を下に掲載る。

                        


 午後から廣石先生ともう一人(助手?)の方が見えて、在宅診療のNO.5があった。今日も前回と同様、体温、血圧、血中酸素濃度の測定、聴診器による胸と背中の触診等の後、問診があった。今日も特に異常はなかった。


8月25日(木)

 毎月、第4木曜日は「四季の会」。物書き同人が集まって、決められた課題に基づいて原稿用紙4~5枚のエッセイを提出し、合評会をやる。以前は、メンバーも多く、喫茶店のスペースルームや貸会議室を借りてやったが、一昨年辺りから、コロナ禍の所為もあって出席者の数が3~4名に縮小していまい、最近は、「横浜みなとみらい」の向かいにある「オーシャン・ビュー・ビル」に落ち着いてしまった。このビルには、アメリカのレンタルオフィス業者の”We Work”社が入居していて、同じビル内にたくさんのテナントを抱えている。「四季の会」のメンバーの一人、佐藤佳代さんは、、ワンマン・オフィスの一室を借りて、先般、起業して、”WBond International”という会社を立ち上げた。レンタル契約の中に、”月に2度(?)は、来客用に We work所有の応接室の一つを貸与する”というのがあり、我々はそれにあやかって、佐藤さんのワンマン・オフィスの廊下を「挟んだ直ぐ向かいにある応接室を借りて月に一度の合評会を開いている。此処だと会議室を借りる部屋代がかからず、一方、佐藤さんにしても職場から集会場までのアクセスが徒歩20秒というメリットがある。

 その佐藤さんは今日は仕事が忙しく、我々の合評会に顔を見せたのは最初と最後だけで、後はずっと、自分のワンマンオフィスで仕事をしていた。今月の課題は「橋」。私は、7月19日のブログの「お詫び」の項で述べたイメージを元にして作品を作ってみた。今回の作品は私自身の評価では”秀作”だと思う。もし、好評なら表現を変えて、産経新聞の「朝晴れエッセー」に応募してみようかと思う(作品は→ こちら)。


 右の写真は仏花(2022-W36)。もう直ぐ9月に入ることから、少し秋の感覚を入れてみたいと、青のリンドウと和菊をメインにした。


           




8月23日(火)




 久し振りのコンサート。しかも、3年振りのバレエだ。バレエ団も同じキエフ・クラシックバレエで、演じるバレエも同じ「白鳥の湖」。オデット役も同じヤーナ・グバーノワ(左)。2019年8月のコンサートは、神奈川県民ホール1F7列目の左寄りの正面の席でとても迫力があり、感動した。その時、同行したY女もとても良かったと興奮気味だった。1年後の2020年にも同じバレェ団の同じ顔触れで、演目も同じ「白鳥の湖」の興業が県民ホールであった。しかも同じ主催者の神奈川芸術協会の計らいで、「前回観賞された方がリピーターとして来場される場合は前回と同じペア席をアレンジします」というサービスもあって予約しておいた。

 ところが、その年はコロナ禍が猛威を奮い始めた年で公演は1年延期された。但し、チケットを返却せず、持っていると、翌年の公演には同じ条件で(同じ席で)観賞できるというので、大事そうにチケットを持っていた。ところが、翌2021年もコロナの猛威はピークということで、コンサートを含む殆どの興行が中止となり、その年もキエフバレエの公演も更に1年延期となった。が、同じように古いチケットを返却せずに持っていると、1年後に同じ条件で鑑賞できるとの配慮は持続されるというので、面倒だからチケットを返却せずにキープしていた。ところが、1年後の2022年(今年)にもコロナウィルスの猛威は続いている上に、ロシアがウクライナに軍事侵攻して、首都のキエフも大変な状況となった。

 そういう状況では、今年の開催は、先ず、無理だろうと、半ば諦めていた。ところが、現実には、キエフ・バレエ団では戦争による危険を避けるために、各メンバーがそれぞれ適当な理由をつけてウクライナから出国していたらしい。そして、7月に入ると日本公演に必要なメンバーが来日して日本公演をスタートしていたようだ。というわけで、今日の公演に必要メンバーも東京に集合することが出来たという。

 「白鳥の湖」は予定通り催行されることになったが、3年前一緒に鑑賞したY女は殊の外臆病で、未だに、コロナが怖くて自宅に閉じこもったまま、人混みに出かけることは避けたいという。そこで、同行者好捕として、体操教室の茂ちゃん先生に白羽の矢を立てて、打診してみた。日本エアロビック連盟のインストラクターの資格を持っているだけあって、軽やかは身のこなしで観客を魅了する、本場のバレエを観に行くことには二つ返事でOKしてくれた。というわけで、本日の同行者は茂ちゃん先生だ。彼女は、横浜市青葉区に在住で県民ホールには車でやってきた。お蔭で、帰路は最寄りのみなとみらい線「日本大通り」の駅まで送ってくれたのには助かった。

 茂ちゃん先生は、帰りの車の中で、キエフクラシックバレエ団のパフォーマンスには大いに感動したことを話してくれた。非常に意義のあるバレエ鑑賞となった。

  【訃報】 中條恒男さん

 8月11日、肺炎のためご逝去。享年92。
 2008年5月~2018年11月プラントOB会の会長を務められ、毎回、プラントOB会には出席された。その後、膝を傷められ、毎回の出席は難しくなり、名誉会長になられた。
 2019年6月の出席が最後で、その後の出席はなかった。その時の挨拶で以下のように言われた。
「以前は、小学校から大学まで学校の同窓会、職場のOB会に皆勤で出席していたが、膝の具合が悪く、出られなくなった。長く出ていた「PPの会」も辞めた。今は、この「プラント会」だけに出ることにしている。」
 その後もプラントOB会のことを随分気にされており、毎回、会合の後に出来上がる「アルバム」を楽しみにされていたと聞く。
とても物腰の柔らかい方だった。故人の御冥福を心からお祈りする。 合掌!
 

           

8月15日(月)

 戦記念日だ。新聞各紙は一斉にそのことを朝刊のトップ記事に取り上げている。産経新聞の榊原智論説委員長が「終戦の日に」のタイトルで寄稿した一文はとても中身が濃い(→ こちら)。その冒頭に、「17/8/05」この数字をご存いだろうか」と、読者に問いかけている。その数字を見て、私はピンときた。それを説明する資料がある。その資料には「17/8/05」数字が印刷されているので、ヒントとして下記に掲載する。

       

 これは、終戦記念に、インドネシアで発行された 10万ルピーの紙幣の裏面だ。下に注釈をつけたように、2605年8月17日、ジャカルタにて、「インドネシア人民の名において」2人の人物がサインしている。スカルノ大統領(当時)とハッタ副大統領(当時)である。

 当時、まだ日本の管轄下にあったインドネシア政府が発行したもので、終戦の日を「2605年8月17日」と明記しているのだ。当時は、2600年代で、2605年と書くと長くなるので「05」と書かれている。丁度、今の時代のことを我々が「2022」を略して「22」と書くのと同じ慣例だ。
それでは、2600年というのは何処から来たのか、というのが次なる疑問だろう。それは、我が国に残る最古の歴史書、古事記および日本書紀によると、キリスト紀でいう BC660年に神武天皇が大和に朝廷を成立したのが日本国の誕生とされている。大和朝廷誕生から数えて2600年後の ”皇紀2600年”が1940年(昭和15年)となる。有難くも、その年は私の生まれた年なので、認知症に片足踏み入れた今でも忘れることはない。

 つまり、日本国内では殆ど使われることのない”皇紀”が、インドネシアでは公式に使われていたのだ。皇紀、神武天皇、大和朝廷、万世一系の皇室などどいうと、「科学的に証明されていない」という反論を受けるが、キリストの誕生に基礎を置く”西暦”だって、処女受胎により身ごもったマリアが馬小屋にイエスを生み落とした日を”西暦0年”とする説明だって「科学的に証明されている」わけではない。バイブルの教えにより、皆がそう信じているだけではないか。日本人が”皇紀”を信じることがあっても、それにあからさまに反対する必要はないだろう。



8月14日(日)

 台風一過、穏やかな一日。今日は、長女・恭子が私の従姪(ジュウテツ)・荻野千草さんと会うのに、私が品川プリンスホテルの和食を提供する昼食会に同席した。千草さんは、私たち一家がデュッセルドルフに駐在した時、千草さん一家もニチメンの駐在員として近くに居住していた。が、荻野さん一家は先に日本に帰国することとなり、ドイツ現地校のギムナジウム(日本の高校に対応)に通学していた千草さんを、卒業前の間、我が家で預かることになった。タイミング的には、四女・康子の臨月が近づいていたので、誕生すれば。千草さんにはベビーシッターをお願いすることとした。必然的に、長女・恭子にはお姉さんが出来たようなもので、恭子も未だに「千草おねえちゃん」と呼んでいる。

 千草さんは、現在、タトルモリエージェンシー(→ こちら)の専務取締役をしている。御亭主は武田徹さん。ジャーナリストで専修大学教授(→ こちら)をされている。品プリの「味街道五十三次・品川」で3人が集まり、昔話に花が咲いた。また、千草さんは長年糖尿病を患っていて、昨年、弟から臓器の提供を受けて腎臓移植手術に成功、以前は食べるものが制約されていたが、今は殆ど何でも食べることが出来る。というわけで、松花堂定食を御馳走した。恭子は、現在、オーストラリアの病院で現役の看護師。千草さんは病院生活が長かったlことkら、日本とオーストラリアの病院の現状について熱こもった議論も展開していた。2時間半ほど経ち、御亭主の武田さんが迎えに来てホテルのコーヒーショップで待っているとのことで、昼食会をお開きにして、3人で2階のコーヒーショップへ移動した。恭子は武田さんとは殆ど顔を合わせることがなかったのだろう、お互いに挨拶を交わしていた。その後、全員で地下2Fの駐車場に降りて、千草さんとはお別れして、武田さんの車で帰った。私は、恭子を車に乗せて次の目的地で下ろして、家に帰った。


8月13日(土)

 前日・金曜日の朝は素晴しい天気で、大規模修繕の足場に取り付けたメッシュ呼ばれる布を外した直後だった。西の空には、富士山が久し振りに顔を出した。何カ月ぶりだろうか、何だか懐かしくなって暫くバルコニーに出て富士山を眺めた。

 それから一夜明けた今朝は、台風8号が関東地方に接近するとかで、朝から暴風雨で、大変な天気。今日は、5年振りにオーストラリアから一時帰国した長女・恭子を交えてのファミリー・パーティが我が家である。車で来る人たちは大丈夫として、駅から歩いてくる人は傘など何の役にも立たない。私は、朝から8人分のランチを作るのに忙しかったが、ズブ濡れになっては気の毒なので、末っ子の康子を駅まで迎えに行った。その前に、電車の中に居る娘とラインでやり取りをした。私は駅まで迎えに出るというのに対し、娘はタクシーに乗るから大丈夫だという。私の常識では、この暴風雨の中で駅を降りてからタクシーを捕まえることなど先ず不可能だろう。取り敢えず、駅で待とうと思い、車で最寄り駅の裏の道で待機することにした。後から振り返れば、これは余計なお世話だったようだ。

 駅に到着時刻の11時20分を過ぎても私の車の所に現れないので、ラインで「待っているから早く来い」と送信した。が、娘からは「スマホに入れてあるタクシー配車のアプリで呼べば、直ぐに来るから大丈夫」という。残念ながら、”配車アプリ”等というデジタル武器にはトンと疎い八十翁には、この暴風雨の中、そんなに簡単にタクシーが捕まるとは信じ難い。「駅裏で待っているのだから早くこちらの車にのってくれ」と返事した。」

 数分後に娘が現れて私の車に乗り込んできて「タクシーの方はキャンセルしてこちらに来た」という。取り敢えず、娘を載せて我が家に帰ったが、我がマンションの駐車場は青空駐車だ。私の駐車場所から3号棟の建物に入るまで傘は役に立たず、びしょ濡れになった。その後、20分ほどで、他のメンバーもやってきた。今日は全部で8人。3女・麻子の金子家から一家四人と途中の駅で待ち合わせたという、長女・恭子の5人がやってきた。それに近くに住む次女の淳子は雨に濡れながら歩いてやってきた。

 8人全員が集合して、先ず、妻の仏壇で焼香をしてもらい、リビングで昼食会となった。右の写真は3女の麻子が撮ったため。7人となっている。尚、テーブルの上にあるカレーライスとサラダは、私が昨日から1日半かけて作ったもの。

 食後には、四女康子自作のチーズケーキ、三女麻子持参のオハギ、それに我が家で一カ月ほど前に買い置き、冷凍保存しておいたZEN工場特製のロールケーキなど、盛りだくさんのデザートを戴いた。

 また、今回は来ることができなかった長女・恭子の亭主、ニコラスくんとは、恭子のスマホでリモート会談をして、ニコラスくんには、アデレードの自宅のガーデンやリビングなどを案内して貰った(下の写真の中央)。また、私には子どもたちからのプレゼントに、ケンゾーに似た小鳥の図柄の体操教室用のTシャツを頂戴した(右端)。





     



8月7日(日)

 月が改まって、俄然、忙しくなった。今朝は、朝食のサラダに幸水梨と巨峰を加えて、それを食べて元気を出すことにした。午後は、久し振りのクラシックコンサート。ミューザ川崎で毎年夏に行われる「フェスタ・サマー・ミューザ」の開幕を飾る、ダン・エッティンガ-指揮の東京フィルハーモニーで、メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」とリムスキー=コルサコフ「交響組曲≪シェエラザード≫」がメイン。

 右の写真は、ヴァイオリニスト服部百音(モネ)さんのツイッターから借用した。モネさんのドレスは今日の舞台衣装そのものなので、恐らく、演奏会終了後に舞台裏で撮ったものだろう。左から、ヴァイオリニストの服部百音、指揮者のダン・エッティンガー、コンマスの三浦章宏の各氏。モネさんと指揮者のエッティッンガーは以前からの知り合いいらしく、モネさんのツイッターにも「ダンとはよく気が合う」と書いている。

 メンコン(メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲)では、モネさんの迫力ある演奏が印象的だった。特に、カデンツァの部分では、ダンの指揮棒を睨みつけながら適当にメリハリをつけて演奏していることが汲み取れた。以前の服部モネさんの演奏は、大人しく、スコアーに忠実に弾く印象が強かったが、今日の演奏は、自分のテクニックを前面に出し、迫力ある演奏を意図しているように聞こえた。特に、演奏が終わって聴衆の大拍手に何度も丁寧に応えて、アンコールを一曲弾いたのだが、これが、パ ガニーニの「無窮動」だった。この曲は難局中の難曲で相当のテクニックを要する曲だが、モネさんは聴衆に「私のテクニックを注意して聴いてください。上手になったでしょう」と訴えているようだった。

 「シェエラザード」は、物語の語り手の名前。ペルシャのシャリアール王は妻の不貞を知り激昂し、妻と相手の男たちの首をはね殺害する。 以来、女性不信に陥ったシャリアール王は毎夜、若い娘と一夜を過ごしては殺害すると言う暴虐を続けた。 それを見かねた大臣の娘シェエラザードは自らシャリアール王のもとへ行くことを決め、シャリアール王の傍で毎夜、魅力的で面白い物語を聞かせる。 物語の続きを聞きたいシャリアール王はシェエラザードを殺すことが出来ない。 シェエラザードの命をかけたその物語が千一夜を迎えた時、二人の間には子供が生まれ、ついにシャリアール王は心を和らげ改心し、シェエラザードを正式に妃に迎える。

 曲の中では、ヴァイオリンの独奏がシェエラザード役を務め、オケ全体による荒々しい主題が、シャリアール王を示す。このシェエラザードの語りを表すエキゾチックなヴァイオリンの音が「あ、このメロディーだ」と以前に聴いた記憶を呼び起こしてくれる。この繰り返しが、シェエラザードを聴いていて楽しくなるのが面白い。



7月31日(日)

 あっという間に7月も最後の日となった。今年の夏は殊の外暑い。地球温暖化とは関係ないと思うが、北関東では時として40℃を超える日がある。南関東の東京でも35℃を超える猛暑日になることもある。この猛暑の中、Covid-19の方は、BA・25と呼ばれるオミクロンから派生した新しいウィルスが猛威を奮っており、東京の1日当たりの感染者が4万人を超える新記録が出たりして、第7波が到来したとされている。病院の受け入れ態勢も大混雑で、熱中症で倒れて救急車を呼んでも引受先の病院がないので、直ぐに来てくれないこともあるようだ。

  一方、マンションの大規模修繕はかなり進んできて、バルコニーのフローリングも完成した。元あった人工芝は完全に剥がされ、グリーンのフローリングが、ライトグレイの樹脂のフローリングに替わってしまった。が、イメージ的には思ったほど悪くはない。その代わり、一つ悲しい出来事が…。フローリングの中央に置かれたボケの鉢を見ると分かるが、4月の初めにはあれだけたくさんの可憐な花をつけ、その後も新緑の葉で覆われていたボケの鉢植えが枯れてしまったようなのだ。工事中は一切陽の当たる場所に置くことが出来なかったからだろう。亡き妻が大切にしていた鉢植えだけに、この状態から再び緑の芽が出てくれると嬉しいのだが…。

 8月に入ると、また慌ただしくなりそうだ。ホームページ関係では、このブログのゲストブックを引き受けてくれていた "Tea cup"がサービスを停止する。これまで20年近くの間 Tea cup がゲストブックを記録してくれていたのだが、過去にまで遡る莫大なデータを保存するか、消去するかという問題が残る。保存するとすれば、Tea cup グループの業者にお願いする必要があるのだが、この業者は、”2チャンネル”を扱っていた業者らしいので、目下、どうするか思案中だ。

 それと、8月のイベントとして最大のものは、オーストラリアのアデレード在住の長女の恭子が、10日ほど休みを取って5年振りに帰ってくるのだ。今回は、亭主のニコラス君は同行せず、恭子一人で帰国するという。ファミリーパーティをやったり、神戸の中村家の墓参りをしたいというので、同行するかどうかいう問題も残る。

 左の仏花 2022-W35は、和菊とヒペリカムをメインに飾ってみた。フラッシュを炊いて撮ったら、カーネーションがハレーションを起こしてしまい何の花か区別がつかなくなっている。






7月25日(月)

 今日、第4回目のワクチン接種に行って来た。行先は「きはら整形外科」だ。1カ月ほど前、淳子に車椅子を押してもらって、風呂で転倒したことで、骨折がないか診て貰った、あの整形外科だ。第4回のワクチン接種を引き受けている医院は近くに3軒あった。第3回の接種をやってもらった至近距離の「難波メディカルクリニック」、皮膚科に通っていた「下丸子皮膚科」、それに「きはら整形外科」である。この中で、使う薬剤が”ファイザー”であると明言していたのは「きはら整形外科」だった。後の2カ所は”モデルナ”になるかもしれないような表現だった。モデルナは副反応が心配だ。過去3回、ファイザーを接種してもらったが、副反応は左手を挙げる時に痛みを感じる程度だった。

 今朝、9時過ぎに接種を受けて、現在、午後の11時半。約 14時間が経過したが、左腕に微かな痛みを感じる程度だ。4回目が一番簡単だった。


7月22日(金)

 待ちに待った山梨産の桃がスーパーの果物コーナーに出回るようになった。早速、朝食に採用したが、この桃のシーズンは、年によって色々異なるようだ。2年前、桃が初めて朝食に登場したのは、7月9日だった。(「こちら」) から7月月9日を参照)。ところが、昨年は月遅れの8月4日だった。(「こちら」)から8月4日を参照)。桃が出ると、次は幸水梨、それから巨峰と、私の好物が続く。この順序は、毎年、変わりはない。

 夜に淳子がやって来ると言うので、チョット変った料理を作ろうと、明日は「土用の丑」なので、今日産経新聞に出ていた「ひなちゃんパパの家族レシピ」に紹介されていた「うな玉」なるものに挑戦してみることにした。(→ こちら
メインの材料は「ウナギのかば焼き1人分」とあるので、東武ストアに買い物に出かけた。明日は土用の丑とあって、総菜コーナーの半分近くをウナギのかば焼きが占めている。中国産のものと鹿児島産のものが並んでいるが、中国産が 1,200~1,300円で、鹿児島産は1,000円ほど高い。思い切って、2,300円の鹿児島産の物を買った。後、何処にあるか不明な”鶏ガラスープの素”や、それにニラを一束買った。レシピにはニラ3本と書かれているが、何とも奇妙な分量だ。3人分で3本だから1人が食べる量は、ニラの茎1本ということらしい。ニラ一束は数えたことはないが、恐らく、20~30本ほどが一束になっている。その中の3本だけを使えと言うのだろうか。どうにも納得ができないので、独断と偏見で倍の6本ほどを3cmほどに切って、ボウルの溶き玉子に入れた。このレシピには、他にも納得できないところがある。そもそも、レシピのイラストだが、ひなちゃんパパが手にしているのは、スズキかカツオだ。どう見てもウナギではない。

 このレシピで一番問題となるのは、溶き玉子の中に2cm幅に切ったウナギと3cm長さに切ったニラを入れて、それをフライパンで半熟状態になるまで炒めるという箇所だ。実際やってみると、溶き玉子は、割合簡単に半熟状態になるのだが、その時、ニラは未だ生なのだ。だから、レシピ通り進んでも、いざ食べる時は、ニラだけが未だ生なのだ。キャベツやレタスなら生でも抵抗なく食べることは出来るが、生のニラを食べるのは抵抗がある。だから、結局、ニラを避けて、半熟玉子とウナギの蒲焼だけを食べることになるのだ。高い材料を使っても、半生のニラが入っているだけでウナギのかば焼きのうま味は消えてしまうのだ。これをやるなら、先にニラを油炒めして、軟らかくなったものを溶き卵の中に入れると、美味しく食べられるかもしれない。

 夕食の”うな玉”は、淳子の御期待には添えなかったが、その後の阪神 vs.DeNAの野球観戦は、先発の青柳が6回を1点に抑え、打っては、大山とサトテルのアベック2ランホーマーが出て、6ー3の勝利。淳子も大いに御満悦であった。

 右は仏花 2022-w34。前回の w33と大差ないが、アルストロメリアを増やして、こちらを主人公にしてみた。



7月17日(日)

 今日は、ZEN工場の美味しいロールケーキが特別販売される日。前回、1月23日に同じZEN工場のケーキの販売があって、ロールケーキ2本を買うことが出来た。詳細は、当日のブログ(→こちら ) から、1月23日の記事をご覧願う。その後、2度ばかりZEN工場ケーキの販売があったが、2回とも買いそびれてしまった。今日は、是非とも、ロールケーキをゲットしなければならない。販売時間は11::00~12:00。ケーキ大好きオバサンの淳子に話したところ、10:45頃に買いに行くと言う。私も、様子を見に行こうと、その頃に着くように、手押しカートを押しながら出かけてみた。先着組が5人程待っていた。その後で待つことにした。カートの椅子を出して座りながら待った。

 暫くすると、淳子がやってきた。話をしながら5分程待ったろうか。11時5分程前に販売が始まった。今日は、直ぐに順番が回ってきて、ロイヤルロールケーキと抹茶ロールケーキを2本ずつ買うことが出来た。1本は、我々が食べるが、ケーキ自体は冷凍されているので、冷凍庫で保管すれば4カ月は持つと聞く。8月には、長女の恭子がオーストラリアから一時帰国するので、その時に食べようと、1本ずつを冷凍保存することにした。

 売り場を離れる時は、未だ、11時になっていなかったが、10人ほどの行列ができていた。多摩川ハイムに戻った頃に、雨が降り出した。淳子がアパートに洗濯物を干してきたというので、ケーキを冷蔵庫の冷凍室と冷蔵室に分けて入れておいて、淳子を車でアパートまで送ることにした。淳子のアパートまでは、車で5分ほどの距離だ。往きに、先ほどの即売場の前を通ってみたが、売り場は既に閉鎖されて、行列も消えていた。店先には、「売り切れ御免」の札がかかっていた。未だ11時10分頃だった。アッという間に売り切れてしまったということだろう。そういえば、前回、12時前に買いに行ったら、誰も居なくなり、売り場には「完売御礼」の札がかかっていたことを思い出した。そうか、ZEN工場のケーキ即売会では、今日のように販売開始15分前ぐらいに行くのがいいのだ。ひとつ、学習することが出来た。

 淳子をアパートで下ろし、私はそのまま”東武ストア”に夕食の買い物に行った。夕方には淳子が戻って来るので、夕食の材料を買った。買い物が終わって、屋上の駐車場に上がったら、豪雨に変っていた。家に帰って、料理の支度を始めようとすると、淳子からラインのメールが入っていた。
「洗濯物はギリギリ降りだす直前に取り込むことができた。車で送って貰わなければアウトやった」とある。

 夕方、メインのおかず、”豚バラ大根”が出来上がった頃、淳子がやってきた。今度の月曜日は掃除のヘルパーさんが休みなので、ケンゾーの鳥篭の掃除をやってもらった。その後は、何時ものように、お風呂に入って、6時頃出てきて、夕食を食べながらのテレビの野球観戦となる。今日のゲームは「阪神 vs.中日」だ。5位と6位の試合だが、現在、せ・リーグの6球団は、首位ヤクルトの一人勝ちで、他の5チームはどこも借金を抱えている。所謂、”一強五弱”の典型となっている。ゲームの方は、阪神先発の助っ人ピッチャーのガンケルが8回を3安打、1失点の好投を見せ、阪神は1回に挙げた3点を守りきって、3-1の勝利。

 野球の後は、コーヒーを淹れて、ロイヤルロールケーキを食べた。そして、淳子は自分の分け前のケーキを袋に詰めて、鼻歌を唄いながら帰って行った。


7月15日(水)

 今日は午前中、「ひかりホームクリニック」の廣石先生、第2回目の診療訪問があった朝から寝室兼書斎でPCに向かっていると、訪問診療のことはすっかり忘れて忘れてしまっていた。普通、家にいる時には補聴器をつけないので、廊下の突き当りのリビングにあるピンポーンのモニターの音は聞こえない。
書斎の固定電話が、突然、鳴り出したので受話器を取った。
「もしもし、ひかりホームクリニックの廣石ですが、入り口のチャイムを押しているのですが、ドアが開きませんが…」
「スミマセン! 直ぐに空けますので、もう一度、チャイムを押してくださいますか」と応えるとともに、リビングに飛んで行った。

 モニターには、廣石先生の顔が映っている。急いで、モニターの”通話”と”開錠”のボタンを同時に押しながら、「スミマセン。どうぞ」と話しかける。モニターの廣石先生が入り口のドアの方に移動したのを見て、今度は玄関に急いで、玄関のドアを開けてエレベータの方を見る。2階、3階…5階、6階と表示が変り、7階で止まってエレベータのドアが開く。聴診器を胸にぶら下げたままの廣石先生がエレベータから出てこられた。
「どうも、すみません。寝室に居てチャイムの音が聞こえなかったものですから」
「それは構いませんが、下に車を待たしているので、早く診察を始めさせてください」
「ハイ、分かりました。こちらへどうぞ」
 リビングに案内すると、冷えたお茶を冷蔵庫から出そうとすると、
「それは、結構です。先ず、血圧を測らせてください」と、血圧計を出して、右腕にベルトを撒き、圧搾空気のボタンを押す。徐々に腕に圧迫を感じながら、測定結果を聴く。
「120の93ですね。少し低血圧ですね」
「若い時から低血圧で、90の60位でした」
「つぎは、血中酸素濃度を」とパルスオキシメーターを出されたので、右手の人差し指を差し入れる。
「98ですね。全然問題ないです」メーターの数字をこちらに示しながら仰る。確かに、これまでは93~95だった値が、98まで上がるのは珍しい。

 その後、前回採血した血液検査の結果を記録した紙を何枚か拡げて説明された。前立腺がんのマーカー PSAは0.163で問題ない。橋本病のマーカーTSHは5.71は少し高いが昭和大学病院での測定値もこの程度だった。
後、肺がんのマーカー CEAの数値がブランクになっていたので、次回からはこれの分析値も知りたいとお願いした。その他、簡単の問診があった後、次の患者さんの所に急ぐのだろう、そそくさと帰って行かれた。

 夜は、何時ものように、淳子がお風呂に入ってから、ナイター観戦をしながら夕食。

 右は、仏花2022-w33。前回のカーネーションとガーベラだけは残して、アルストロメリアやヒペリカムそれに和菊を少々追加した。



7月9日(土)

 昨日は臨時ニュースで大騒ぎになった。安倍元首相は、あの後、ドクターヘリで県立病院に運ばれた。これで一命は取り留めるだろうと安堵したのも束の間、5時の時点では、死亡が確認された。安倍元総理を背後の至近距離から自製の銃で狙撃した犯人の山上某は、直ちにSPに取り押さえられたが、この際、今回の暴挙の背景を詳細にわたって明るみに出してもらいたい。色々な人が種々の解説をしているが、私が最も注目したのは、国際政治学者の藤井厳喜氏の解説だ。ダイレクト出版が、それをビデオにまとめているので、それを観てほしい。問題点を8項目の観点から良くまとめて説明していると思う。何時まで、このビデオにアクセスできるのかは不明だが、一応、お知らせしておく。→ こちら

 右の花は仏花 2022-w32。派手な花の後なので、花としてはガーベラとブバリアだけ。ブバリアは可憐な花だが、原産地はアメリカの熱帯地方。花言葉は、「交流」、「空想」だとか。




【お詫び】

 私のブログを続けていく上で、過去のものは、月単位にまとめて各月のブログの末尾に「過去のブログにアクセス」するためのテーブルを作成してきました。しかし、今年に入ってからは、例えば、2月へのアクセスが3月の記事に繋がったり、4月へのアクセスが5月の記事に繋がってしまうといった不備が目立つようになりました。これは、HPを作成する上では”故障”の一つです。どうしてそうなるのか、私には分かりません。恐らく、私の脳内のファンクションが、「健忘症」から「認知症」に移行しつつあるのではないかと判断されます。

 イメージとして言えば、私は、目下、「健忘症の島」から「認知症の島」に渡る吊り橋をゆっくり歩いているのです。そして、前方の認知症の島への入り口の標識がだんだんと大きくなってきているのです。認知症の島に渡り切ってしまえば、恐らく、このブログを続けてることは出来なくなると思います。しかし、20年近くにわたって続けてきたブログの故障がそのまま残ってしまうのは、甚だ残念なものがあります。そういうわけで、これまで続けてきた「過去のブログにアクセスするためのテーブル」を廃止して、月単位にまとめることを断念することにしました。

 従って、私のブログは、”日”単位で新しく更新していき、その年が終わるまで続きます。年替わりも同様に続いていきますが、年末と年始の区切りは明確にするつもりです。どうか、これまで通り、私のブログをご愛読下さるようお願いします。

 ここまで書いてきたところで、私のスマホから緊急のベルが鳴りだしました。現在、7月8日(金)の正午です。スマホは臨時ニュースを伝えています。 「安倍元総理が奈良の西大寺駅前で、選挙演説の途中、背後から銃のようなもので撃たれ、心肺停止で救急車で運ばれた」という内容です。テレビの報道を観るため、ブログはここで一旦お終いにします。



6月29日(水)

 今月の22日のブログで少し触れたが、今日、在宅診療医の廣石拓真先生が、第1回の診療に見えた。廣石先生は、2014年に新潟大学医学部を卒業され、船橋私立医療センター、大森にある東京労災病院に勤務されていた。未だ30代後半の若い先生だ。専門は呼吸器内科。病院の勤務では、患者の思いと病院側の方針が食い違うことが少なくなく、歯がゆい思いをさせられた。

 この度、病院勤務ではなく、「ひかりホームクリニック」の院長として、訪問診療に専念するにあたり、患者さんの希望をなるべく叶えるような診療を心掛け、ご家族にも寄り添った医療を提供していきたいとの抱負を持っておられるとのこと。

 これまで、昭和大学病院の処方箋に基づき、武蔵新田駅近くの山崎薬局で薬を購入していたが、従来と同じ薬剤を廣石先生の処方箋により、糀谷調剤薬局が配達に来てくれるとのこと。そうなると、病院に行くこともなく、薬局に薬を買いに行く必要もなくなる。今日の第1回診療では、聴診器による触診とパルスオキシメーターによる血中酸素濃度の測定などがあった。血中酸素濃度は「96」と健常者並みの数字が出た。

 また、昭和大学病院で7月1日に予定されていた、橋本病のマーカーを分析するための採血もやってもらった。

 右は、仏花(2022-w30)は、仏花(2022-w26)に、新しく、ヒマワリを追加したもので、もうすぐ真夏の到来を告げる構図にした。

【訃報】 池川 信夫 さん/元 新潟薬科大学学長 5月12日午後、病のため 享年95(ウェブの記事で見つかった) 

池川さんは、「ユーモアスピーチの会」の仲間。長い付き合いの中で、最も想い出が深いのは、2007年3月のこと。児玉麻里さんがポーランドの元大統領・ワレサ氏を民間外交で、日本に招聘したことがあった。その時は、日本側の受け入れ態勢は委員長が池川さん、副委員長が私という立場だった。
ポーランド大使館でやったパーティで、偶々参加していた洋画家・堀本恵美子さんとのツーショットを撮ってあげた。また、最後のサヨナラパーティの時に、私も仲間に入って撮った写真を紹介する。



 池川さんは、もう10年近く前のこと、新形薬大の学長を退任して、奥様の早苗さんと2人で、奥様の出身地、伊豆の伊東に転居されてしまった。今回、ウェブ上で御主人の御不幸を知って、奥様の早苗さんんお悔やみのメールを差し上げたところ、下記のような返事が来たので、此処に紹介する。
≪メールありがとうございます
かれはとっても良い人生を送ることができたと思います
伊東がとっても気に入っていましたし我が家は町のど真ん中
とっても便利な所にありましたので大いに満喫されたと思います
さいごまでボケずにいました  有難うございます    早苗≫


6月25日(土)

 今朝、10時から多摩川ハイムの管理組合総会が開かれた。此処の管理組合では4月―3月の会計年度をとっており、6月の総会は、会社で言えば株主総会に相当する。私は2020年度(第39期)の管理組合理事長、2021年年度(第40期)の副理事長と2年に亘って、組合の役員を務めたので、今日が最後のお勤めとなる。総会でも、大規模修繕の一環として計画した玄関扉の付け替えに関することに議論が集中して、予定の2時間を過ぎてもなかなか終わらない。

 一番前の席に座っている私には、補聴器をつけていても皆さんの討議は2~3割程度しか聞き取れなかった。今日は、家ではダクト清掃というのがあって、台所、トイレ、浴室のダクトの大掃除が行われている。土曜日なので淳子がやってきてこちらの担当をしてくれているが、そちらの方が気になる。午後の1時頃に総会は漸くお開き。急いで家に帰った。

 4~5人の作業員による作業が未だ続いていた。狭いキッチンに作業員の男が3人も入って作業していると、流石にギョッとする。


6月23日(木)

 今日は第4木曜日で「四季の会」がある。このところ、会場は横浜「みなとみらい」の”オーシャンゲートビル”に固定してしまったようで、今日もオーシャンゲートビルの8Fに出向いた。ここは、We work のロビーのようなところ。「We work」とは、起業家向けにコワーキングスペースを提供する、米国 Hew Yorkに本社を置く企業。詳しくは→ こちら

 四季の会の会員の一人、S女が借りているオフィスの会議室を利用させて貰っている。このビルの8Fは、丁度ホテルのロビーのようなところで、此処で訪問先のオフィスのスタッフ(我々の場合はS女)と連絡を取り、迎えに来てもらう。今日は、どういうわけか、ロビー全体がセミナールームとして使われていて、「台風に関するセミナー」らしきものを開いていて、30人余りが聴いていた。

    

 暫く待つと、S女が迎いに来てくれて、10Fにある彼女のオフィス・スペースの向かいの会議室に入る。私が一番乗りだったようで、案内してくれたS女は、私を会議室に置いて自分は自分のオフィススペースに引き揚げる。私は、ロビーで頂戴したカルピスソーダと来るときコンビニで買ったサンドウィッチを出して、軽い夕食を食べる。8Fのロビーでは、空港のラウンジのように、各種ドリンクをセルフサービスで頂戴できる。だから、後から来る連中は例外なく片手にビールジョッキをしっかり握っている。

 やがて、M氏とN女が現れて、先ほどのS女も加わり、4人が揃った。最近の定例出席者である。本日の課題は「石・Stone」。私は、当初、先日の脱衣室転倒事件を書く積りだったのだが、課題の石が引っかかって文章が進まず、代わりに4月末に多田周子さんを三鷹に案内した一件を写真入りで7枚の大作にまとめた。合評会でも皆さんから好評を頂戴した。特に、最後に添付した多田周子のブログ記事が話題を呼んだ。
作品は→こちら


6月22日(水)

 そろそろ、お中元の季節になる。早速、一番乗りの到来ものは、何と、宇部の”一久ラーメン”だった。一休ラーメンは「宇部新川駅」の直ぐ近くに食堂があり、お土産商品としては「一休食品」のチェーン店で販売している。通販では、楽天でも扱っているので、東京からでも発注できる(→ こちら)。”知る人ぞ知る”宇部の人気土産でもある。現役時代、宇部に出張するときには、一久ラーメンを食べるのがささやかな楽しみでもあった。毎回、これを送ってくれるのは、以前、東京の大田区で学習塾を開いていたO氏の奥さんだ。私は、その学習塾で5年ほど、常勤講師として英語と小論文を教えていた。

 一久ラーメンは地元でも人気のラーメンで、最近はクール宅急便で北海道と沖縄を除く、日本各地にまで配達することができるようになった。お味の方は、博多ラーメンによく似た豚骨ラーメンで、私は好きだ。これを6包み送ってきたので、2包みを淳子が持って帰った。この日は、早速、夕食に1包みを頂戴した。懐かしい宇部の味だった。

 午後には、「光ホームクリニック」という医院から、相談員の方が訪ねてこられた。ケアマネの淳子が手配したのだ。私が終末期には、病院ではなく、在宅診療を希望していると知って、候補の医院を紹介してくれたようだ。このクリニックは、蒲田にあって、医師が定期的に患者の自宅を訪問して、診察、処置、健診などをやってくれる。だから、現在、昭和大学病院に通うことが億劫になってきているので、このクリニックに全面的に診て貰うようになれば、昭和大学病院に通う必要もない。

 同時に、淳子の狙いは、昭和大学病院への通院を止めさせておいて、車の運転も卒業させようというところにもあるようだ。私も、高齢者の事故が多い現状に鑑みて、何時までも車の運転を続けることは出来ないことは認識しているので、当分、淳子の計画に乗っかってもいいかな、という選択肢も視野に入れている。今月の29日に、第一回の診療が予定されているので、先ずは、診療に来る医師と少し話いてみようと思う。

 左の写真は仏花2020ーw26は、前回のベニバナとカーネーションを残して百合の花を新しく加えたもの。白百合が大きく開花すると、周辺が明るくなったような気がする。





6月18日(土)

 今朝は、、先ず、近くの木原整形外科に行く予定だった。この医院は何時も大変込み合うので、10時までに受け付けてもらうのが効率的だ。淳子は9時半頃やってきたので、即、出発。妻が脳出血の再発で入院するまでは、妻の車椅子を押して、随分、各地に出かけた。麻子の結婚式では、会場のサイパン島までも妻の車椅子を押しながら出かけた。日本国内も、新婚旅行で訪ねた鹿児島の指宿温泉や、更に、その先の沖縄までも出かけた。そして、沖縄ではハンディキャップへの扱いが本土よりも遙かに進んでいることに驚かされたこともあった。当時、私は車椅子の扱いのベテランだった。散歩の途中、階段を降りる時や踏切を渡る時にも、心得たもので、必ず後ろ向きになって車椅子を押すのではなく引く形で進んだ。

 そんな私が、今日は車椅子に乗って、我が娘が車椅子を押す。半分恥ずかしいような、嬉しいような、複雑な思いで木原整形外科に出かけた。先ず、予想外だったのは、車椅子の乗り心地だ。車椅子の妻を見ていると、とても楽チン!という感じに見えたが、実際乗ってみると決して乗り心地は良くない。ガタガタ揺れるし、安定性はよくないし、病院の廊下を看護師さんに押してもらっているような感覚を想像していたが、何だか裏切られたように感じた。で、木原医院では、効率よく受け付けてもらい、殆ど待つこともなくレントゲン撮影も終わった。結果は、「大丈夫です。キレイな骨です。骨折はありません」という先生の診察結果を聞いて安心した。

 今日は、お昼に3女の麻子の長男、ナオ君がやってきた。今年の4月に、サラリーマンとなったナオ君は、鶴見にある東芝の独身寮に暮らしている。鶴見はJRの京浜東北線で蒲田まで2駅。休日にはやってきて、私のPCの先生をやってくれる。明日は「父の日」ということで、淳子がお昼に「銀のさら」のお鮨を取ってくれた。因みに、「父の日」ということで、後日、長女の恭子からは朝食用のハム、ソーセージの詰め合わせ、四女の康子からは夏物の帽子を頂戴したので、この場を借りて紹介させてもらう。

             
  

6月17日(金)

 甚だお恥ずかしい話だが、一昨日の夜、入浴しようと風呂場に入ったところ、バスタオルをリビングに置いてきたことを思い出して、一旦、脱衣室に戻った。そこで、ツルリ!、ドスン‼、ゴッツン❣ 脱衣場の床(リノリウム床)に水が落ち、ツルリと滑って、風呂場の入り口の柱に右腰の後部を強打した。鋭い痛みで暫くは起き上がれなかった。5分も経っただろうか、漸く、少しは動けるようになったので、そのまま寝室に戻って、裸のままベッドに潜り込んで寝た。

 翌朝、目が覚めても未だ腰の痛みは残っていた。取り敢えずは、湿布薬のパテックスを貼り、その日予約の入っていた林歯科医院にキャンセル電話を入れるとともに、午後からの体操教室も茂ちゃん先生にお休みのメールを入れた。近くに住む次女の淳子には、Lineで連絡を入れた。流石に、ケアマネジャーをしているだけあって、やることが速い。先ずは、骨折があるかどうかを検査することが第一だとのことで、早速、車椅子の手配をしてくれた。

 午後には、上海のKi氏と横浜のKa氏と3人で月に一度のリモート懇親会。この時も浴室で転んだことが話題になって、御両人からも種々心配と励ましの言葉を頂戴した。Ki氏によると、上海ではロックダウンは解除になったものの、外出しても殆どの店は閉まっていてやることもないので、殆ど家の中に居るとのことだった。

 夕方には、ピッカピカの車椅子が届いた(右写真)。明日の午前中に、淳子に押してもらって、近くの整形外科にいくことにしている。
  



                             



6月14日(追)

 先ほどのブログで、8月に長女・恭子がオーストラリアから一時帰国すると書いたが、その恭子が、最近、あちらで我が家の家系からは信じられないことをしでかしているので、忘れないうちに書きとどめておきたい。

 先ず、去る5月21日(土)、Coober Pedyというアデレードの北、900㎞のところにある町で行われた、砂漠道路のど真ん中を走るマラソン大会に参加し、なんと!総合3位、女子で1位を獲得した。このマラソン大会は「The Great Kanku Breakaway Marathon」と呼ばれているもので、毎年、各地からマラソン愛好者が集まって行われる。毎年、その結果はウェブ上で公表される(去年の大会の結果は→ こちら)。今年の結果を下に示す。 



 3位の欄にある「Kay Nakamura」というのが、中村恭子のことで、記録の4時間10分29秒76は、昨年5位(女性1位)のKINDNESSさんの記録、04:15:21.69と較べても恭子の方が5分も速い。

 その快挙があって、3週間後の6月11日、今度は、地元アデレードで行われた”Summit to Sea(「頂上から海へ」)というレースに参加して、今度もまた優秀な成績を収めた。このレースは、42.2kmのフルマラソンではなく、山の頂上から海まで約35㎞の山道を一気に走り降りるトレイル・レースだ。今回の成績は、総合で63人中9位、女子で14人中2位というもの。それにしても、普通のマラソン選手なら、一度、フルマラソンを走った後は、数か月はレースに出ないと言われるが、3週間しか経たないのに、再びレースに参加して、今度も優秀な成績を納めるという快挙。この健脚のDNAは一体何処から来たのだろうか。中村家にも妻の実家、棟上家にも健脚と言われるような存在は皆無である。矢張り、本人の練習の賜物なのだろう。因みに恭子は自分のブログに次のように書いている。

「ちなみに Kayは、疲れている時こそ無理してでも走ります。疲れているからといって家にこもってると、余計に気分が落ち込むってもんさ。これが Kayの健康法-少なくとも、精神的に。」

 以下は左から、Coober Pedy での女子の部・優勝商品、砂漠の道を走るKay、女子の部で優勝した時の記念写真、Summit to Sea で女子の部2位のシルバートロフィーを手にして


     


6月14日(火)

 長い間の懸案だったリビングのエアコンとガス調理台を新しくすることにした。今年のこの次期は、モノ入りが集中していいて、他にも、車検とそれに伴う車の整備、5年置きにやって来る火災保険、車の保険、マンションの大規模修繕時でなければできないダクトの清掃等々、年金生活者には仰天するような請求書が集中することになるのだが、何とかなるだろうと、半ばヤケクソで腹をくくった。

 その中で、今回、リビングのエアコンとガス調理台の取り替えを原商店にお願いすることにした。朝の9時すぎに、工事の人が4人程やってきて、忽ちリビングは火事場のような有様となった。メインの工事はエアコンの設置で、ガスコンロの方は、原商店の番頭さん、村上さんが担当した(右写真)。

 工事は、能率よく進み、お昼過ぎには、エアコン、調理台とも完成した。今度のエアコンは23畳用・三菱電機の「霧ヶ峰」だ。確か、以前のマンション、”ドルチェ南雪谷”のリビングでも霧ヶ峰だったと記憶する。とても快適だった。今年は8月に、長女の恭子がオーストラリアから一時帰国する予定なので、日本の猛暑(向こうは真冬だ)でも快適に過ごしてもらえると思う。


           



6月12日(日)

 今日も慌ただしい1日となった。先ず、午前10時からは管理組合の理事会。私の理事会の理事の任期もこの6月で満了となる。最後の理事会なので出席することにした。が、今日は、私の車の車検の納車日なのだ。今年の車検は、三菱自動車・用賀で受けるのではなく、近くのガソリンスタンド「Eneos 下丸子」で受けることになった。午前中に納車しなければ、車検に間に合わないと言われ、理事会の前に持って行くことにした。車で行くのは簡単だが、車を渡してしまうと歩いて帰ることはできない。そこで、多摩ちゃんバスの時刻表を調べると、9:43「下丸子駅」発で9:53「矢口中」着の便がある。これなら何とか間に合いそうだ。ガソリンスタンドのオープンは朝9時なので、9時ジャストにEneosに着けば、納車の手続きをして、手押しカートで下丸子駅まで歩けば、何とか間に合いそうだ。

 早めに家を出たため、Eneos の前で開店を待つことになったが、開店早々に車を渡して、手押しカートで下丸子駅に歩いた。その時気が付いたのだが、慌てて出たために腕時計もスマホも持っていないのだ。車に乗っている時は車の時計を見ればよいのだが、車を離れてしまうと今の時間が分からない。ゆっくり行けばいいのか、急がなければいけないのかの判断がつかないのだ。仕方がないので、少し急いで歩くことにしたが、すぐに息が上がってしまう。カートを停めて、椅子を出して休憩しなければならない。道行く人たちの同情のまなざしを浴びながら、恥ずかしいが、少し歩いて、少し休むを繰り返して、何とかバス停までたどり着いた。バスの時間表を見ると、9:43の次は、10:20とある。それだと、矢口中着は10:35になる。かなりの遅刻だ。今の時間が分からないので、自分の待つバスがどちらかは分らない。バスを待つ乗客は私一人なのだ。カートの椅子を出し、座って何時来るか分からないバスを待つのは心細い。10分ほど待っただろうか。これだけ待っても来ないということは、自分の待っているバスは10:20のものに違いない。大遅刻を覚悟しようと、ボンヤリ考えていた。その間、環八を通過するタクシーを何台か見かけたが、手を挙げても止まらない。恐らく、客を乗せているか、迎えに行く途中なのか、空車ではなさそうだ。ひょっとすると、カートの椅子に座っているので、身障者と判断され乗車拒否されたのかもしれない。

 それから数分後、漸く、バスがやってきた。カートを畳んで乗った。入り口の椅子に座って、運転席の時計を見ると、10:18とある。未だ、そんな早かったのか、時計がない時の判断が如何に頼りないものか痛感させられた。まぁ、お蔭で何とかギリギリ間に合ったので、良しとすることにした。

 右は、仏花 2022-w25。ちょっと珍しい”紅花”を主役に、ガーベラとスプレーカーネーションを添えてみた、





6月11日(土)

 今日は、珍客の来訪があった。真喜志興亜クン(→ こちら)。私が一橋大学・大学院に通っていた頃、同じ下宿屋に居た沖縄出身の学生で、明治大学に通っていた。その下宿屋というのが、西荻窪の駅の近くにあった。普通の民家で、私が1階の北に面した4.5畳の部屋、彼は、2階の南に面した4.5畳を借りていた。私の部屋の窓から手を伸ばせば届くほどの距離に隣の家の洋間があった。隣は作曲家の遠藤実さんのお宅で、その洋間にはピアノが置いてあり、歌手が練習する部屋になっていた。当時、流行した「高校三年生」という歌があったが、あの歌は遠藤実の作曲で、舟木一夫という若い歌手が唄っていた。舟木一夫などの歌手は、夜の10時ごろに「お早うございます!」と挨拶してやってくる。2時間ほど練習して日付が替わる頃に「有難うございました!」と、挨拶して帰っていく。

 漸く静かになったと思ったら、夜中の1時近くになって、住み込みの書生のような若者が一人で練習を始める。それが、正にノイズだった。若者の練習する歌は決まっていた。何度も何度も聞かされて、歌詞を覚えてしまった。
「♪逃げた女房にゃ未練はないが、お乳欲しがるこの子が可愛い。子守歌など苦手な俺だが、バカな男の浪花節、ひとつ聞かしょうか、ネンコロリン♪」 今でもスラスラ書けることに自己嫌悪を覚える。後になって分かったのだが、この若者は一節太郎という歌手見習いだった。

 その一節太郎の名前に関して、面白いエピソードがある。ある日、真喜志クンが私に教えてくれた。
「あの遠藤さん宅の書生の名前が分かりました。節太郎(セツタロウ)というみたいです。床屋さんで散髪して貰っている時に、前の鏡にあの書生のブロマイドが貼ってありました。そこに、節太郎のサインがあったのです。」と、報告してくれた。その翌日だったか、一番風呂を狙って行った銭湯で、あの書生と顔を合わせたのだ。男湯の客は彼と私の2人だけだ。黙っているのも変なので、思い切って話しかけてみた。
「貴方の名前が分かりました。節太郎(セツタロウ)さんって言うらしいね」私が言った途端に彼は不機嫌な顔をしてプイと横を向いてしまい、私のアプローチを拒絶したのだ。私も気分を悪くしたので、その場は無言で通した。後日、この話を真喜志くんに伝えると、
「あぁ、あれは私の早とちりでした。あのブロマイドのサインは、一番上の「”一”の字が黒いバックの上に書かれていたので気付かなかったのです。だから、本当は一節太郎(ヒトフシ・タロウ)というそうです。先日、テレビに出ていました」

 そういうことなら、あの時、彼がとった態度は頷ける。今度会ったらお詫びしなきゃと反省したが、お詫びした記憶はない。その後、真喜志くんとは吉永小百合の映画を一緒に観に行ったりして仲良くなっていった。このブログの読者で私の掲載した連載小説「白い闇」を読まれた方も少なくないと思う。あの小説の第3章に登場する「沖縄からの留学生・牧原」というのが、真喜志クンのことだ。

 真喜志くんは、現在、熱海に居を構えている。この日は、蒲田駅まで送迎した。その時、次回は熱海で会いましょうと、別れた。右は仏花(2022ーW24)..。翌12日、四女の康子が持参した。何でも、渋谷の日比谷花壇で買ったとか。紫陽花やひまわり等季節の花で飾られたブーケだった。





 6月8日(水)

 本日のイベントは5月31日のブログで述べた第2課題のメイン・イベントだ。児玉麻里さん主催の「第30回 インターナショナル・オルガン・フェスティバル・イン・ジャパン」。海外からアーティストを招聘して、各地でオルガンコンサートを開く。その中心となるのが、目白にある東京カテドラルの「マリア大聖堂」だ(左写真)。

 丹下健三による、ユニークな建物は、中がホールとなっている。1964年の東京オリンピックのメイン会場とほぼ同時に建てられた。丹下健三のメモリアル作品の一つとなっている。この東京カテドラルは、日本のカトリック寺院の総本山で、ローマ法王が来日すると、必ず、このマリア大聖堂でミサが行われる。

 今日は、この会場で、珍しい人と面談した。高校時代の親友の一人、新居欣造君と奥さんの佐和子さんだ。新居君は神戸の御影にお住まいだが、この日は、エルンスト・シュテンダーの貴重な演奏を聴く最後のチャンスかもしれないということで、神戸から奥さん同伴で出てこられた。奥さんの佐和子さんは、同じ神戸高校の同級生の門谷佐和子さんだ。当時は、名字の「門」を取って、「モンチャン」と呼んでいた。新居君とは時々顔を合わせるチャンスがあるが、モンちゃんと会うのは何十年振りかのことだ。面影はそのままで、とても懐かしかった。

 今日のオルガニスト、シュテンダー氏だが、バッハが師と仰いだブクステフーデ直系の後継者で、現在も、ドイツ/リューベック教会の主任オルガン奏者だ。児玉さんは、これまで何度もドイツを訪問、シュテンダー氏とは昵懇(ジッコン)の間柄だ。オルガンフェスティバルでは主役を演じるはずの児玉さんが今日は此処に居ない。本人は、西新宿の病院のベッドでさぞかし口惜しい思いをしていることだろう。実は、3日の福島公演の会場(福島市音楽堂)で転んで足を骨折したとのこと。   


6月4日(土)

 5月31日のブログで、管理組合の「臨時総会」について書いたが、今日がその臨時総会の当日だ。40人ほどが出席していた。今日、採決を取る議案は一つだけだ。「玄関扉改修工事を一旦停止し、見直しを行うかどうか」である。が、これの採決をとる前に、本日の臨時総会の議長を誰にするかで紛糾した。
 管理組合の規定では、通常の総会では、議長は管理組合の理事長と決まっている。が、「臨時総会の議長は当日の出席者+書面または代理人によって議決権行使する者」(合計220票)の過半数を取った者が議長になる、と定められている。議長候補は、①管理組合理事長 ②臨時総会招集者の2択なのだが、開票結果は下記のようになった。
-出席組合員(議決権行使者を含む)220票
- 理事長を議長とする       108票
-臨時総会招集者を議長とする   55票
ー棄権              57票

上記の結果、理事長を議長にする票は、108で、出席組合員の過半数に2票及ばずで、議長の資格はなく、結局、議長不在のため、「臨時総会は流会」となった。ということで、本件は6月19日の今期最後の定期総会で選出される、次期の管理組合の理事会に引き継がれることとなった。
 
 右は、仏花(2022W-23)。花はカーネーションだけ。後は、観葉植物と言うべきか、葉の面白さを集めた。特に、中央の植物は、何だか、ブロッコリーに似ていて面白い。が、名前は知らない。この写真は、フラッシュを焚いたので、ピンクのカーネーションは色が飛んでしまった。緑も鮮やかさが失われた。写真としては、”没”の一枚だ。







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