バックナンバーは下記の氏名をクリックして御覧下さい。

 第1回 文藝春秋社長/平尾隆弘氏(学19E)  2012年3月取材

 第2回 陶芸家/濱村(旧姓 木戸)祐子氏(学31E) 2012年10月取材
 第3回 レアメタルのトレーダー/西野元樹さん(学46P) 2013年4月取材
 第4回 透明水彩画家/若葉恵子さん(学30C) 2013年6月取材
 第5回 現代ロシア文学翻訳家/織田佳子さん(学25P) 2013年9月取材

編集後記:

1月9日に銀座の講演会会場で、2月26日には御自宅で、
2度にわたる取材をさせていただき、寺谷さんの御活躍の
一端を知ることができました。それにしてもマルチ・タレント。
御自宅の書斎や廊下には本がビッシリの書棚の間には
御自分で描かれた油絵がたくさん掛けられていました。
それに似顔絵の漫画もお見事で、いや〜御見それしました。

また、今年喜寿を迎えられるというのにとてもお元気。
確かに「ボクも現役ですよ」と言われたことの中身を十分
納得させていただきました。これからも益々の御活躍を
お祈りします。          
                  管理人

ー エッ、こんな絵も描かれるのですか。

寺谷: そうですよ。私の描いたものを少しお見せしましょう

(そう言って何枚かの漫画を出して来られた。→下の写真)

 

ー ロシア問題では第一人者の寺谷先生も今年喜寿を迎えられるわけですが、現在はどういった方面で
  活躍されておられるのでしょうか?

寺谷: 先ほどお話しした海外使節団も続いていますが、ラジオやテレビにも時々出ます。それに、郷里・姫路の
   観光大使や地元・府中の生涯教育検討委員や社会教育委員など、なかなかゆっくりできませんね。

ー そのお忙しい中でも運動や趣味などもやられるのでしょうか。

寺谷: 青学の横にあるスポーツジムには週に一度は通っています。それに、趣味としては絵を描いたり、亀の
   収集でしょうか。


ー どうして亀なのですか?

寺谷: 亀は世界中どこの国に行ってもいます。だから、置物や彫刻などは色々ユニークなものがあって面白い。

ー 最後に、寺谷さんの御家族のことを少し伺ってもよろしいでしょうか。

寺谷: 家に居るのは家内と2人です。息子が1人居ますが、馬込に住んでいます。コンピュータで描く3次元の
   映像などを制作しているのです。3DCという会社ですが、私はそこも手伝っています。


ー お忙しい中を2度にわたってインタビューさせていただき、どうも有難うございます。これからもお元気で
  御活躍下さい。

 第6回は青山学院大・名誉教授の寺谷弘壬(てらたに・ひろみ)さん(学9P)です。寺谷さんは1937年
生まれ、今年喜寿を迎えられます。以前、このコラムの件で少しお話をしたとき、管理人が「若手の現役を
中心に紹介しています」と説明したところ、「ボクも現役ですよ!」と力強く仰いました。

 確かに、寺谷さんは今でも本の執筆や講演会、更にはロシア視察団の団長など、多方面で活躍して
おられます。また、神戸外大同窓会の関東支部を立ち上げる際には、名誉会長の中田章さんとともに
多大な貢献をされました(詳しくは→ こちら)。
もっと早くこのコラムに登場していただくべきであったと、管理人として後悔している次第です。

                     

 さて、寺谷さんを取材するにあたって、なかなか御多忙な方なので、2度にわたってインタビューさせて
いただきました。第1回は、1月9日、製紙業界のトップの方々に新春講演をされるチャンスに会場の銀座
「紙パルプ会館」でお会いしてお話を伺いました。この新春講演は毎年1月に開かれ、既に30回を超える
とのこと。

 当日、会場には100名ほどのお歴々が集って、寺谷さんの講演を聴いておられました。管理人も特別に
末席に参加させていただいて、拝聴しました。
演題は「プーチンと安倍の違い〜政治・外交・経済(エネルギー)・領土問題をめぐって」。


  

 ロシアの政治、外交、経済の変化を御自分の豊富な経験をもとにユーモアを交えて話され、最後に
日露関係の現状と展望について総括して、約1時間の講演を終えられました。

 ここで、寺谷さんの略歴について少し紹介させていただきます。別ページを御覧下さい(→ こちら)。


 2度目のインタビューは1ヶ月半後、2月26日に実現しました。場所は府中市の御自宅。管理人は車で出かけ
たのですが少し迷ってしまい、定刻に遅れること20分。奥様が通りまで出て案内してくれました。お宅の前には
ちょうど車が1台停められるスペースがあって大助かり。早速、寺谷さんの書斎のある2階に案内されました。
壁面には書棚があり本でビッシリ。ロシア語の本、英語の本、研究テーマの学術書、御自分の著書などが整然と
並べられています。

        

 書物に囲まれたデスクでの取材になりました。

ー 今日はお忙しいところを有難うございます。早速ですが、寺谷さんの少年時代のことを少しお伺い
  できますか?

寺谷: 生まれたのは西宮市内です。近所の小学校に通いましたが、2年生のときに空襲がひどくなり姫路の奥の
  福崎というところに疎開しました。戦後もそこに滞在し地元の中学を卒業。高校は姫路西高に通いました。

ー 福崎からは近いのですか?

寺谷: いえ、25qほども離れていました。徒歩と汽車で通いました。足腰は鍛えられましたね。汽車も1時間に1本
  程度しかなく、乗り遅れると大変でした。

ー 少年時代はどういう生徒だったのでしょうか。学外では何かアクティビティをされていましたか?

寺谷: いわゆる普通の少年でしたよ。ただ、絵が好きで小学校時代から油絵を描いていましたね。

ー 神戸外大では、どうしてロシア語を?

寺谷: 将来就きたい職業として、新聞記者、外交官、学者などを希望していました。そのためには外国語が必須
   ですが、英語をやっている人はとても多い。人のやらない語学が有利だろうと考えて、ロシア語です。

ー 大学ではどういう活動をされていました?

寺谷: ESS と演劇部に属していました。語劇祭では活躍しましたよ。舞台にも立ちましたが、「桜の園」では演出を
   やりました。美術部にも顔をだしていましたね。

ー 卒業後、フルブライトの奨学資金でアメリカに留学されていますね。

寺谷: 1960年に卒業したのですが、先ず国際情報研究会というシンクタンクに入りました。ここの研究員になると
  色々なメリットがある。フルブライトの全額支給生の試験もここの研究員として受験し合格しました。また、私の
  留学したプリンストン大学の大学院は博士課程しかない。ここの研究所で論文が認められると大学院修士課程
  と同等の資格が与えられます。それがないと博士課程には進めなかった。それと、アメリカの大学に留学する
  わけですから、ロシア語だけではダメなので民間の外国語学校で英語の勉強もやりました。だから、フルブライト
  全額支給生の資格をとったのは卒業の5年後、1965年のことです。


ー ロシア語で苦労して、英語でも苦労されたわけですね。著書のひとつに「TOEFL is awful.」と書いて
  おられますが、語学は以前からお好きだった?

寺谷: トーフル(TOEFL)の試験には何度も苦しめられましたからね。英語について言えば、中学時代は田舎の
  学校でしたのでロクな授業もなかったです。実際、Jack and Betty を手にしたのは高校に入ってからでした。
  アメリカに行ってからもペンシルバニアの大学で英語の特訓を受けました。そのときですね、TOEFL が awful
  だと思ったのは。


ー 寺谷さんの書かれた本の中で、「神戸の異人館に1人住まいのお婆さんのところに通ってロシア語を
  勉強した」とありますね。私(管理人)も全く同じことをやりました。山本通りの「白系露国人組合」という
  ところに居られた、旧ロシア貴族の方でした。1917年のロシア革命で命からがら逃げてこられたのです。

寺谷: 当時、神戸には無国籍白系ロシア人と呼ばれる人たちが多く住んでいました。中にはチョコレート製造や
   ロシア料理レストランで成功した人も居たようですが、押し並べて生活は苦しかったようです。


ー プリンストン大学の大学院には工学系とリベラル・アーツ系がありますが、寺谷さんは何を?

寺谷: リベラル・アーツの中の社会学です。大学院では院生として学ぶだけでなく、大学付属の「ソ連研究所」の
   研究員としても活動していました。このことは待遇面でも有利に働いたと思います。


ー プリンストン大学を終えられてからもアメリカに滞在されたのですか?

寺谷: いいえ、一旦帰国しました。実は、1964年に結婚して、アメリカでは家内と一緒でした。それに、私の場合、
   国際情報研究会からの派遣の形だったので、派遣期間にも制限がありましたので。

ー そうですか。奥様と御一緒なら留学中の宿舎はどうされたのですか?

寺谷: 4LDKのフラットをもらいました。なかなか快適でした。


ー それは素晴らしいですね。それで、帰国されてから色々な大学で教しえることになるわけですね。

寺谷: そうです。懇意にしていた東大の辻村明先生から青山学院に推薦してもらい、助教授になりました。
   社会学の教官を求めていたのです。その後、明治、法政、慶応などにも講師として務めました。


ー アメリカの大学でも教べんをとっておられますね。

寺谷: はい、その後、青学では教授になったのですが、その頃からマスコミ関係にも引っ張り出されて俄然
   忙しくなり、体調を崩してしまいました。このままではいけないと、青学からの派遣でアメリカに行きました。
   アメリカでは、コロンビア大学やネブラスカ大学で教えました。約1年半でしたが、静養と実益を兼ねたような
   結果になりました。

ー すると、大学の数にすると、10本の指では収まりませんね。

寺谷: 他にも国際情報研究会などから外国の大学に半年間の講師として何度も派遣されました。それも含めると
   100校ほどになるかもしれません。だけど、長期で教えたのは10校程度でしょう。


ー アメリカから帰られて一段落する間もなく、今度はソ連崩壊でまたまたマスコミの引っ張りダコになりますね。

寺谷: 1991年から92年にかけてですね。あの頃は大変でした。朝4時ごろNHKが車で迎えに来る。スタジオで
   どうらんを塗りお化粧してテレビ出演するわけですが、それが終わると、どうらんを落とす間もなく民放が迎えに
   来る。家に帰るのは深夜という日が続きました。ある時は、化粧してもらいながら居眠りしちゃったことがあって、
   目が覚めて鏡をみると物凄い厚化粧。眉などは毛虫が這ったように黒々している。慌ててトイレに駆け込んで
   化粧を落としたこともあります。


ー なるほど。昔でいうMMK=「もてて、もてて、困る」という状態ですね。他にもエピソードがありますか?

寺谷: あれは、民放の昼の番組でした。森田健作さんの司会でテレビに出ていたとき、お茶が出されました。一口
   飲んで、何か言わなきゃと思い「美味しいお茶ですね」と言ったのです。すると、その番組を見ていた郷里の方が
  「弘壬さん、お金に困っているのかね。お茶の宣伝までやってる」と言われたそうです。


        


ー なるほど。寺谷さんは今でも視察団を組織して色んな国にでかけておられるそうですが…。

寺谷: 大学は2007年で退任しましたので、教える仕事は殆どないのですが、海外視察は1980年代に始まって
   今も続いています。平均して年に2度ほど出かけるので、訪問した国は100ほどになるでしょうか。

ー 100の大学で教え、100の国に視察団団長として訪問し、これまでに出版された本も100冊ほどあるとか?

寺谷: 出版した本の数は訳書も含めると、正確には 101冊です。(笑)

ー その中でベスト5を選ぶとしたら?

寺谷: 選ぶ基準が難しいですね。よく売れた本、評判の良かった本、という観点からは次の5冊ではないかな。
  ・「日本人とロシア人ーここが大違い」1990年 文春ネスコ
  ・「ソビエトの若者たち」1978年 学陽書房
  ・「ロシアン・マフィア」1994年 文藝春秋
  ・「国際感覚をみがく本」1988年 エルバカブック
  ・「ソ連邦における結婚と家族」(訳本)、1967年 東京創元社


ー 確かに、ロシアのマフィア研究に関しては、日本で寺谷さんの右に出る人は居ないでしょうね。一体、どこから
  資料を集められるのですか? マフィアに親しいお友だちが居るとか…。

寺谷: 単行本、新聞、雑誌が主ですが、個人的にモスクワで知り合ったマフィアの友だちも居ますよ。

第7回
トップ頁に戻る









前ページに戻る
お邪魔しま〜す! 第6回

ー それと、何かに書かれていましたが、ロシアの指導者たちの
  頭髪について、実に面白い観察がありますね。革命後の
  レーニンから始まって、ツルツルとフサフサが交互に入れ替わる。
  右の図でいくと、短期政権に終わったアンドロポフとチェルネンコ
  を除いても、レーニン→スターリン→フルシチョフ→ブレジネフ→
  ゴルバチョフ→エリツィン→プーチンと見事にこの法則が当て
  はまります。その後も、メドベージェフ→再びプーチンです。
  もちろん、これは偶然でしょうが、ロシア本国でもこのような
  ツルツル・フサフサの法則が話題になっているのですか?


寺谷: ロシアでもそういう話は出ますよ。面白いのは、
  私がこの説を出したのはエリツィン大統領の時でしたが、
  1996年1月4日付けロシアの新聞「論拠と事実」がこれを
  取り上げて次のように紹介しています。
  
…日本の専門家の説では、後継者になりたい人は
   「頭を丸めた方がよい」と指摘している…

  更に、この記事は英文の「Newsweek」誌にも転載され
  ました。
  このことは私の「世界の読み方・国際社会学」という本にも
  書きました。

ー この絵もなかなか面白いですね。これは何処から取られたの
  ですか?


寺谷: みんな私が描いたのですよ。